第120話 神はいよいよ困惑する
夕刻が近づくにつれ、朝から執拗に降り続いていた雨がようやくその勢いを失い、やがて完全に止んだ。
空を重く覆っていた灰色の雲がゆっくりと割れ、その隙間から黄金色の夕日が差し込んで、濡れたルナ村の景色を鮮やかに照らし出す。主人は肩に一本の農具を担ぎ、泥を撥ね上げながら実直な足取りで畑の畔道を歩いていた。
昼方に氾濫しかけていた排水溝の水位は、すでに安全な基準値まで戻っている。
主人は土手の縁に立ち、静かに流れる水を観察した。これ以上、補修の手を加えるべき箇所は見当たらない。
「……無事だね。良かった」
あのお方は小さく安堵の呟きを漏らすと、家路につくべく身体を反転させた。
だが、その瞬間に主人の視界に入ってきたのは、遠方の街道からルナ村へと侵入してくる、いくつかの馬車の列だった。
一台や二台ではない。実直に数えて、五台もの馬車が同時に村の境界を越えてこちらへと向かってきている。
主人は首を傾げた。
「ずいぶんと、賑やかだね」
主人が村長邸へと戻る頃には、その広大な前庭はすでに異様な熱気と人だかりで埋め尽くされていた。
荷馬車から荷物を下ろしているのは、最近この地に出入りし始めた新進気鋭の商人たちだ。しかし、その周囲を取り囲んでいるのは、主人がこれまでの人生で一度も目にしたことのない、完全に『見知らぬよそ者』たちの顔ぶれだった。
モーレンは慇懃な態度で彼らの応対に追われており、ハンスは忙しなく彼らの荷運びを手伝っている。
そしてセリアは、またしても新しく届けられた数本の書状の巻物を両腕に抱え、青い顔で立ち尽くしていた。
主人の姿を認めるや否や、ハンスが大きく手を振って声を張り上げた。
「あ、主人! 戻ったのかい!」
「うん。畑の状況は確認し終えたよ。……彼らは一体どうしたんだい?」
「どうしたも何も、全員が主人に直接会うために、はるばるやってきたんだよ」
「僕に?」
「そうさ!」
主人が人だかりへと一歩近づくと、群衆の中から一人の初老の男が弾かれたように進み出て、深々と頭を下げた。
「おお、あなた様が……! お初にお目にかかります、お師匠様。私たちは北方の領地から参りました」
「ようこそ、ルナ村へ。……かなり遠方からの旅路だったね。僕に何か、データ的な用件でもあるのかい?」
男は何度も激しく頷いた。
「はい! 私たちは、あなた様の智慧を、この耳で直接、実直に学びたいと考え、こうして馳せ参じたのです!」
主人は数秒間、その要請の意図を客観的に精査した。
「学ぶ? ……農業の、技術的なアプローチのことかい?」
「その通りです! 種子の正しい選別法、そして過酷な季節における水利の管理システム……すべて、あなた様がこの地で実践されているという、生きた智慧を授かりたいのです」
主人は少しも躊躇することなく、小さく首を縦に振った。
「それなら構わないよ。明日の早朝、僕が畑に出る際に同行するといい。実際の現場を見た方が、効率的に理解できるはずだ」
男の顔が、まるで奇跡の洗礼を受けたかのように、瞬時に歓喜へと染まった。
「ありがたき幸せ……! 何という慈悲深さか……!」
男が感激のあまり震えていると、今度はその後ろから一人の若い娘が、緊張に顔を強張らせながら前に進み出た。
「あ、あの……お師匠様! 私たちは隣の領の開墾地から参りました。不躾なお願いとは存じますが、私たちも明日の学びへの同行を許していただけるでしょうか?」
「もちろん、歓迎するよ。畑の物理的な収容量が許す限りはね」
主人は一点の淀みもない誠実な声音で即答した。
あのお方の合理的な思考において、同じ内容の技術を解説するのであれば、受講者の数が一人であろうと十人であろうと、一度にまとめて処理した方が時間的なコストを大幅に削減できるという、単なる最適化の判断に過ぎなかった。
しかし、その実直な姿勢は、周囲の民の目には『どのような迷える仔羊をも拒まない、絶対的な救済者の器』として映っていた。
娘の後に続くように、三人目の者が、四人目の者が、そして五人目の者が、次々と主人の前に進み出て熱烈な懇願を重ねていく。
彼らの要求は一様に同じだった。
「学びたい」
病を治す奇跡を求めているわけではない。天から降る富の祝福を乞うているわけでもない。彼らはただ一様に、あのお方の『智慧』を、生産性を高めるための現実的な知識だけを求めていた。
主人はその一人ひとりの要望に、極めて丁寧に応答を返していった。
やがて、群衆の整理を一時的に終えた主人は、傍らで硬直しているセリアへと視線を向けた。
「セリア」
「は、はい……何でしょうか、主人」
「彼らはなぜ、これほどまでに完璧な同期をとって、同時にこの村へと集結したのだろうね?」
セリアは言葉を失い、自らの唇を噛み締めた。
彼女には、その理由が痛いほど分かっていた。各地に爆発的に広がった『学びのネットワーク』が、ついにこの中心地へと狂信の潮流を押し戻してきたのだ。だが、それをどうやってこの純粋無垢な主人に説明すればいいというのか。
主人はさらに疑問を重ねる。
「彼らの故郷の耕作地で、何か致命的な大規模の冷害や、予測不可能な作物病が発生したのかい?」
「……いいえ、そのような気候データは出ておりませんわ」
「では、なぜわざわざコストを支払って移動してきたのだろう」
「彼らは……」
セリアは一瞬、言葉を詰まらせた。その瞳に、主人のどこまでも澄んだ眼差しが映る。
「……ただ、あなた様に、直接お会いしたかったのですわ」
主人は不思議そうにその端正な首を傾げた。
「なぜだい? 紙に記録されたテキストデータよりも、発信者の現物を目視した方が、プロセスの理解が容易だからかい?」
「ええ……。彼らは、直接教わった方が、より深く『腑に落ちる』と言っておりますの」
「なるほど。それは脳科学や教育学の観点から見ても、至極的確な判断だね」
主人は納得したように頷いた。あのお方にとって、それは少しも奇妙なことではなかった。マニュアルを読むよりも、熟練の職人の手元を直接観察した方が習得が早いのは、ただの経験則的な事実である。
しかし――主人が感じている困惑の本質は、別の部分にあった。
やがて夜の帳が下り、夕食の刻限を迎えても、村長邸の前庭の熱気は一向に衰えなかった。
村の小さな宿場はすでに満員となり、部屋を確保できなかったよそ者たちの多くは、庭の芝生の上に簡易的な天幕を張り、そこで夜を明かす準備を始めている。
主人は温かいお茶の入った杯を手に、薄暗い回廊の縁側から、その無数の焚き火の光を見つめていた。
「まだ、かなりの個体数が滞留しているね」
その背後から、モーレンが静かに足音を忍ばせて近づいてきた。
「ええ。今後も日を追うごとに、その数は乗数的に増加していくかと予想されます」
主人は杯を見つめたまま、しばしの間、合理的な思考の演算を巡らせていた。
「……我が村の実験用ファームの面積では、物理的なキャパシティが不足している」
「えっ……?」
「明日、あの人数のすべてが一斉に畑に進入すれば、後方の列の人間は僕の手元の動作や、土壌のサンプルの実態を正確に視認することができなくなる。それでは、情報の伝達効率が著しく低下してしまうよ」
モーレンは、その言葉の裏にある主人の実直さに、思わず微かな苦笑を漏らした。
「……あなた様が今、懸念されているのは、そこ(・・)なのですか」
「うん。グループをいくつかの班に分割し、タイムスケジュールをずらしてレクチャーを行うべきだね。すべての人間が、等しく鮮明なデータを持ち帰れるように」
回廊の陰に座り込んでいたセリアは、膝の上に両腕を乗せ、ただ深く俯いていた。
このお方は、本当に何も気づいておられない。
集まってきた民たちが、純粋に農業の技術研修を受けるためだけに、全財産を叩いてこの辺境の村までやってきたと本気で信じ込んでいるのだ。
だが――現実は違う。彼らの八割以上は、ただ『生き神様』の御顔を一目拝み、その神聖なオーラに触れたいという、盲目的な信仰心によって突き動かされているというのに。
主人は再び、前庭の光景へと視線を戻した。
暗闇の中、無数の焚き火を囲んで、見知らぬ民たちが楽しげに笑い声を上げている。
ある農民は、自らの故郷の土の話を誇らしげに語り。
ある商人は、持ち込んだ貴重な保存食を、見ず知らずの旅人たちへ惜しみなく分け与えている。
かつては相容れるはずのなかった異なる領地の民たちが、ルナ村の夜空の下で、まるで太古からの友人のように睦まじく融和していた。
主人はそれを見て、その薄い唇の端を、かすかに穏やかな形へと緩めた。
「……それは、とても良い傾向だね」
あのお方は低く呟いた。
「彼らは驚くべき速度で、相互の信頼関係を構築している。素晴らしいコミュニケーション能力だ」
それから、主人は傍らのセリアへと、心底不思議そうに視線を向けた。
「ただ、セリア。僕は依然として、彼らの選択の合理性が理解できないんだ」
「何が……ですの、主人」
「なぜ彼らは、わざわざこの狭いルナ村という座標を選択してまで、集まってきたのだろう? そもそも――彼らの故郷の土地であっても、実直に耕作を行い、生産性を向上させることは十分に可能であるはずなのに」
セリアは、主人のその横顔を見つめ返した。
そこにある瞳は、どこまでも澄み切っており、一点の邪気も、欺瞞も、傲慢さも存在しない。
このお方は――本当に、自分が世界にどれほどの激変をもたらしているのかを、自覚していないのだ。
セリアは、何か言葉を返そうと、その唇をかすかに動かした。
しかし、彼女の喉からは、ついに一つの音も出力されなかった。
なぜなら、セリア自身が完璧に理解していたからだ。
これから自分がどのような言葉のデータを並べ立てようとも、このあまりにも実直で、合理的な思考の怪物である主人が、その本当の理由を理解することは決してないのだと。
前庭を満たし、夜を徹して歌い踊るあの民たちが求めているのは、単なる『農業の専門家』などではない。
彼らがその魂の渇きの果てに探し求め、ついにこの辺境で見出したのは――。
自らの過酷で不条理な人生の底辺を、ただその圧倒的な智慧と存在によって、根底から変革してくれると信じられる『本物の神』なのだから。




