第119話 なぜ増え続けるのか
朝から、終わりの見えない雨が静かに降り続いていた。
細かな雨粒が、ルナ村の村長邸の広大な庭を白く煙らせ、軒先を濡らしている。そんな悪天候の中でも、主人はいつものように実直な足取りで畑へと向かっていった。あのお方にとって、雨の日は作業を休む理由にはならない。むしろ「排水溝の稼働状況を確認するには、これ以上ない好機だね」と、表情一つ変えずに木桶を携えて出ていったのだ。
一方、セリアは屋敷の内に残り、薄暗い執務室の机の前に座り込んでいた。
彼女の目の前には、ここ数日間のうちに各地から届けられた、膨大な数の書状が山をなしている。そのすべてに一度は目を通したはずだった。しかし、セリアは取り憑かれたような手つきで、再び一番上の束から一枚ずつ紙をめくり直していた。
東の最果ての村からの報告。学びの集会の規模がさらに拡大したという。
西の領地からの急報。そこに建設された『学びの集会所』は、押し寄せる民をすでに収容しきれなくなっているという。
さらに、王都のギルドから届けられた最新の書状。そこには、各地の工房で『聖典』の増刷要求が、過去に類を見ない速度で跳ね上がっていると記されていた。
これらの書状の間に、直接的な繋がりは一切ない。差出人の身分も違えば、書かれた地域も数百里と離れている。
それなのに――。
「……恐ろしいほどに、同じですわ」
セリアは一枚目の書状を取り、机の上に置いた。その隣に二枚目を並べ、さらに三枚目を重ねていく。時間が経つにつれ、木製の机の上は白い紙の海で埋め尽くされていった。
呼吸を整え、偏見を排してもう一度その文字列を精査する。すると、どの報告書の中にも、まるで申し合わせたかのように、全く同じひとつの文脈が執拗に繰り返されていることに気づく。
『民らは皆、ただ知識を求めている』
神を崇めたいわけではない。強大な組織に所属して安心したいわけでもない。彼らはただ、純粋に、貪るように『学び』を求めているのだ。
セリアはそっと両目を閉じ、自らの熱を帯びた額に手を当てた。
「なぜ……なぜ、否定すればするほど、増え続けてしまうのですの?」
その呻きのような呟きと同時に、執務室の重厚な木扉が静かに開いた。入ってきたのは、湯気の立つ温かい茶の入った杯を盆に載せたモーレンだった。
「セリア様。まだ、その因果の解析を続けておいでなのですか」
「ええ。止められませんわ、モーレン」
モーレンは気遣わしげな面持ちで、書類の山の隙間に杯を置いた。
「何か、新たな法則性でも見つかりましたか」
「いいえ。むしろ、私の知性が拒絶を起こしそうなほどに、不可解なデータが集まっていますわ。これを見てちょうだい」
セリアから渡された数枚の紙に、モーレンは厳かな視線を落とした。
『我らは、隣の村の民へ、良質な種子の選別法を教授いたしました』
彼は別の紙を手に取る。
『彼らの収穫が劇的に成功した結果、さらに遠方の村々から、教えを乞う者が群れをなして訪れております』
そして、王都の商人が記した最後の一枚。
『全家庭がこの智慧を共有できるよう、我らは自費で聖典の写本を作成し、無償で配布することに決定いたしました』
モーレンはゆっくりと紙を机に戻した。その端正な顔が、かすかに戦慄に強張っている。
「……全員が、申し合わせたかのように、同じ自律行動を取っている」
「その通りですわ。それが私の脳を狂わせるのです」
セリアは深く椅子に身体を預けた。
「彼らは互いに面識もなければ、連絡を取り合う手段もない。それなのに、まったく同じ選択肢を選び、同じ方向へと足並みを揃えて進んでいる。まるで、目に見えない巨大な意志に操られているかのように……!」
部屋を、しめやかな静寂が包み込む。窓の外からは、ただ絶え間ない雨音だけが、不気味なリズムで室内に響いていた。
その静寂を破るように、あわただしい足音と共にハンスが部屋へと入ってきた。
「セリア様、村長。主人が、これをお昼の食材に使ってくれってさ」
ハンスは、今しがた貯蔵庫から出してきたばかりの、泥のついた一籠の芋を机の端に置いた。そして、何気なくあたりを見回し、異常なほどに散らばった書状の山に目を丸くした。
「うわ、何だこれ。二人とも、まだ各地からの報告書を読んでたのかい?」
セリアは力なく首を振った後、ふと思い立ったように彼を見上げた。
「ハンス。あなたに、ひとつ訊きたいことがございますの」
「ん? 何だい、セリア様」
「なぜ……なぜ見ず知らずの他人が、これほどまでに同じ行動を連鎖させていくのだと思いますか?」
ハンスは一瞬だけきょとんとした表情を浮かべ、自らの頬をポリポリと掻きながら、少し困ったように笑った。
「いや、そんな難しいことは分からねえけどよ……。もし、俺が畑で、もの凄く上手くいく画期的な方法を見つけたとしたらさ、そりゃ間違いなく、隣の家の奴に教えるぜ?」
セリアの瞳が、わずかに見開かれた。ハンスは当たり前の事実を語るように言葉を続ける。
「でさ、俺に教えられた隣の奴が、実際に大豊作になって大喜びしたらさ、そいつだって自分の親戚だとか、隣の村に住んでる友達に『おい、このやり方、マジで凄いぞ』って教えるだろ。……人間って、そういうもんじゃねえの?」
その極めて単純な言葉が、セリアの洗練された思考回路を鋭く貫いた。
ハンスは、壮大な教会の教義について語っているのではない。国家を揺るがす秘密結社の思想を口にしているわけでもない。彼はただ、この地で数百年、数千年にわたって営まれてきた、地味で実直な『村の生活』のあり方を語っているだけなのだ。
より良い種子が見つかれば、それを分かち合う。
効率的な灌漑の方法を編み出せば、それを隣人に教える。
そうやって、非力な人間たちは過酷な自然の中で寄り添い、生き延びてきた。
その時、勝手口の扉が開き、雨の匂いと共に主人が室内に戻ってきた。
あのお方の足元には、実直な作業の証である泥が重く付着している。
「排水溝の水位が一時的に危険域に達していたが、構造的な強度は十分に維持されているね」
主人は表情を変えずにそう呟くと、壁に掛けられた手拭いで丁寧に両手の水分を拭った。それから、書類で埋め尽くされた机に目を留めた。
「ずいぶんと、データの整理が難航しているようだね、セリア」
「……ええ、主人。私は、原因を探していたのですわ」
「原因?」
「はい。なぜ、これほどまでに膨大な数の民が、あなた様の後を追い、教えを広げ続けてしまうのか、その真の動機ですわ」
主人はお茶を自らの杯に注ぎながら、数秒ほど客観的なデータを検証するように思考し、それから至極当然の正論を口にした。
「おそらく――彼らが互いに、助け合っているからだね」
セリアは弾かれたように顔を上げた。主人は温かい茶を一口すすり、淡々と続けた。
「個人が手に入れた有益なシステムや技術を、共同体の他者と共有し、互いの生存確率を向上させようとするのは、知的生命体としてごく普遍的な相互扶助の挙動だ。何一つとして、不合理な点はないよ」
あのお方はそれだけを告げると、再び次の実直なタスクをこなすべく、静かな足取りで部屋を去っていった。
木扉が閉まる、小さな音が響く。
セリアは、主人が去っていった空間を、ただ呆然と見つめ続けていた。
その言葉は、あまりにもシンプルだった。しかし、だからこそ――散らばっていた思考の破片が、完璧な一枚の絵として頭の中で噛み合っていくのを彼女は感じていた。
もう一度、机の上の書状の海を見渡す。そこには『我らの宗教を拡大せよ』などという狂信的な命令は、一文字として記されていない。『偉大な教祖のために信徒を集めよ』という野心的な文言も皆無だった。
そこに並んでいるのは、ただひたすらに、
『隣の村の民にも、飢えずに成功してほしい』
という、あまりにも素朴で、あまりにも実直な人間の善意だけだった。
セリアはゆっくりと椅子の背もたれに身体を沈めた。
胸の奥が、これまでにないほど重く、そして底知れない恐怖で満たされていく。
彼女はようやく理解したのだ。
この組織がどれほど弾圧されようとも、主人がどれほど事実を否定しようとも、決して拡大が止まらない本当の理由を。
彼らは、強大な新興宗教を創り上げたいわけではない。
ただ、この世界から、大切な人が飢えに泣く『失敗』を無くしたいだけなのだ。
そして、人間の生存本能に直結したその最も純粋な善意こそが、どのような権力や武力、いかなる教義をもってしても『絶対に駆逐することのできない』、世界で最も強固な怪物を育て上げている正体だった。




