第121話 セリアはついに諦める
ルナ村に、しめやかな夜がゆっくりと下りていった。
一軒、また一軒と、家々の窓から漏れていた生活の灯火が消え、辺りは深い闇に包まれていく。しかし、村の小高い丘に建つ『常世豊穣教会』の白亜の窓だけは、未だに黄金色の光を周囲の暗闇へと放ち続けていた。
風に乗って、遠くからかすかな民の声が届く。それは、彼らが編纂した『芋の聖典』を唱和する規則正しい呟きだった。低く、一定の脈絡を保ち、時折小さな議論の雑音を挟みながらも、再び厳かな静寂へと収束していく。
セリアは村長邸の執務室の窓辺に立ち、ただ一人、その光の拠点をじっと見つめていた。
ほんの数ヶ月前までは、あの場所にはただの古びた木造の物置小屋が立っていたに過ぎない。それが今や、王国全土から集まった無数の民がその前庭を埋め尽くし、智慧の源泉として崇める大聖堂へと変貌を遂げてしまったのだ。
背後の木扉が静かに開き、湯気の立つ金属製の薬缶を携えたリナが室内へと入ってきた。
「お嬢様」
セリアがゆっくりと振り返る。
「温かいお茶を淹れましたわ」
「……ありがとう、リナ」
リナは二つの杯に琥珀色の液体を注ぎ、その一つをセリアの手元へ、もう一つを自らの手元に置き、セリアの隣へと静かに腰を下ろした。
二人はしばらくの間、温かい杯から立ち上る湯気を見つめながら、夜の静寂に身を浸していた。遠くから響く聖典の唱和の残響が、部屋の空気をかすかに震わせている。
リナは窓の外を見つめたまま、少し誇らしげに微笑んだ。
「ずいぶんと、賑やかになりましたわね」
「ええ。日を追うごとに、その個体数は増殖しているわ」
セリアは力なく答えた。
「私、とても嬉しいですわ」
リナの無邪気な肯定に対し、セリアは自らの杯の底を見つめ、低い声音で告げた。
「私は――むしろ、底知れない恐怖を感じているのよ」
「恐怖、ですか?」
「そうよ。この世界の因果の歯車が、私たちの想定を遥かに超えた速度で回転し始めている。もしもいつか……あの盲目的な民たちが、主人のあのお名前を、私たちの関知しない最悪の方向へ利用し始めたらと考えると、夜も眠れなくなるわ」
リナは少しの間、その洗練されていない知性で一生懸命に思考を巡らせていたが、やがて優しく首を横に振った。
「そんなことは起きませんわ」
「なぜそう言い切れるの?」
「だって、主人がいつでもここにいてくださるのですもの。私たちが進むべきデータに迷ったなら、いつだって、あのお方に直接お訊きすればいいだけですわ」
セリアは、自嘲気味な歪んだ微笑を唇に浮かべた。
「それが、最大のバグ(・・)なのですわ、リナ」
「え……?」
「主人は――あのお方は、この不条理な世界に、永遠に滞在し続ける存在ではないのよ」
その言葉は、リナの思考回路を完全に凍結させた。
彼女の脳内において、初めて『主人がいなくなる未来』という致命的なエラーの可能性が演算されたのだ。もしもいつか、あのお方が本当にこの地を去ってしまったら、後に残されたこの巨大な怪物は一体どこへ向かうのだろうか。
その新しい問いに対して、室内にはいかなる解も出力されなかった。再び、冷え切った沈黙が部屋を満たしていく。
その時、食堂へと通じる扉が開き、一籠の小ぶりな芋を抱えた主人が実直な足取りで入ってきた。
「二人とも、まだ睡眠のフェーズに入っていないのかい?」
「ええ、主人。少しお茶を頂いておりましたわ」
セリアが姿勢を正して答えると、主人はその泥のついた籠を机の端に置いた。
「明日のタスクについての連絡だよ」
「はい、何でしょうか」
「北方の領地から来たグループが、日の出と共に再び実技のアプローチを求めてくる。もし可能であるなら、彼らに配布するための農具――特に鍬の数を、追加で確保しておいてほしいんだ」
「分かりましたわ。ハンスを通じて、近隣の住民から物理的な余剰分を回収させます」
「ありがとう。助かるよ」
主人はそれだけを告げると、再び次の実直な作業に戻るべく部屋を出ていこうとした。しかし、その足を止め、窓辺に佇むセリアへと心底不思議そうな視線を向けた。
「セリア。君はまだ、あの建物の存在について、不条理な懸念を抱いているのかい?」
「……ええ。否定はしませんわ」
主人はお茶を一口すすり、客観的なデータを検証するように思考した。
「疲弊しているようだね」
セリアは自嘲の笑みを深くした。
「……少し、脳の処理能力が限界を迎えているのかもしれませんわね」
「それならば、明日のスケジュールから君のタスクを全て除外し、休息のフェーズに充てるべきだ」
「それは不可能ですわ、主人」
「なぜだい?」
「なぜなら……私が思考の演算を止めてしまったら、この世界で誰も、あの巨大な怪物の拡大を『止めようとする者』がいなくなってしまうからですわ」
主人はその端正な首を傾げた。
「止める?」
「そうよ」
セリアは再び、窓の向こうで黄金色に輝く大聖堂を見つめた。
「私はこれまで、彼らに言葉のデータを尽くして事実を説明しました。結果は――完全な敗北。あの組織を物理的に解体しようと画策しました。結果は――完全な敗北。主人に直接、全否定の発言を出力していただきました。それすらも――大敗北。私がシステムを修正しようと介入すればするほど、バグは肥大化し、より多くの信徒を吸い寄せてしまう……」
彼女は胸の奥の重苦しい空気を、長い息と共に吐き出した。
そして――これまでにないほど、穏やかで澄み切った微笑を浮かべた。
「だから……私はついに、降伏することにいたしましたわ」
主人はパチパチと実直に瞬きをした。
「降伏?」
「ええ。誤解しないで頂戴ね。あなた様を元の世界へと帰還させるという、我がラングレン家の絶対的な至上命題。これについては、一ミリたりとも諦めてなどいませんわ」
「うん」
「ですが……あの『常世豊穣教会』という名の不条理なシステムを、私の知性でコントロールしようと抗うこと。これについては、綺麗さっぱり諦めることにいたしましたの」
室内に、絶対的な平穏が満ちていった。
そこには、敗北の悲壮感もなければ、絶望の涙もない。ただ、自らの限界を受け入れた者の、絶対的な『受容』だけが存在していた。セリアはついに、一個の人間としての処理能力の限界値を正しく認識したのだ。
主人はしばらくの間、セリアのその静かな表情を客観的に観察し、やがて小さく首を縦に振った。
「ならば――君が処理可能なタスクだけに、リソースを集中させるといい」
「ええ、その通りですわ。私はこれより、あなた様と共に『帰還の門』を開くためのコード解析だけに、すべての知性を割り振ります。それ以外の一切の雑音は、完全にミュート(遮断)いたしますわ」
主人はかすかにその唇を緩め、満足そうに頷いた。
「それは、極めて合理的で、簡単なアプローチだね」
「ええ、本当に……。なぜもっと早く、この結論に達しなかったのか不思議なほどですわ」
セリアもまた、心からの笑みを浮かべた。
これほどまでに、彼女の精神のスコアが安定し、静かな充足感に満たされた夜は、このルナ村に足を踏み入れて以来、初めてのことだった。
問題が解決したわけでは決してない。教会の規模は明日からも天文学的に膨れ上がり続けるだろう。
しかし――自らの力では到底変えることのできない『不条理の奔流』に対し、無駄な抵抗を試みるのを止めた瞬間、彼女の魂はすべての呪縛から解放されたのだ。
窓の外からは、未だに絶え間なく、民たちの捧げる『芋の聖典』の唱和が響き続けている。
どこまでも同じ純度で。どこまでも厳かに。
そして、セリアはもう、あの声をどうやって消し去るべきかという無駄な最適化の演算を行うことはなかった。
彼女はただ、手元に残された温かいお茶を静かに口に含み、その異端の歌声を、夜の風のデータとしてただ平然と受け流すのだった。
驚くほどに、静かに。
美しく、ただ全てを諦めて。




