第117話 貴族たちの合流
その驚愕の監視記録が王城へと届けられてから、わずか数日の後のことだった。
マコトという名の不気味な響きは、王都に居を構える貴族たちの社交界へも、確実に侵入を果たしつつあった。
それは、国王による公式な布告によるものではなかった。
ましてや、国家が主導した公的な通達によるものでもない。
豪奢な円卓を囲む晩餐の席、華やかな茶会、そして大邸宅から別の大邸宅へと渡り歩く、貴族たちのささやかな密談の間から、その熱種は伝播していったのだ。
「――ルナ村とやらの収穫量が、これまでの数倍に跳ね上がったというのは、真実なのか?」
「ああ、私の耳にも入っている。だが、奇妙なのはそこからだ」
「ほう、というと?」
「変わったのはそのルナ村だけではない。その周囲にあるいくつかの集落までもが、まるで別の土地に生まれ変わったかのように、劇的な変革を遂げているというのだ」
東方を領地とする、ある有力貴族の大邸宅。
数人の諸侯が円卓を囲み、神妙な面持ちで顔を突き合わせていた。
その円卓の中央には、一冊の書物が鎮座している。
表紙には何の装飾もなく、金箔の意匠もなければ、名門の家紋を示す刻印すら存在しない。ただの、無骨な紐で綴じられた粗末な代物。
しかし、そこに記された文字列こそが、いま彼らの間で最も熱く語られているものだった。
初老の貴族が、その頁を慎重な手つきでめくった。
「……不可解極まりないな」
「何がですか、侯爵?」
「書物というよりも、これはただの『作業記録』ではないか」
彼は次の頁へと指を滑らせた。
そこに刻まれていたのは、新しき苗を識別する論理的な手順。用水路の細かな水位調整。収穫物を長期保存するための、実直な管理手法。
神学的な修辞は一切なく、民を扇動する大言壮語も存在しない。
書かれているのは、どこまでもシンプルで、実用的な事実の羅列だけだった。しかし、一切の無駄を削ぎ落としたその記述こそが、かえって反論の余地を完全に奪い去っていた。
「……実は、私の領地でも試してみたのだよ」
円卓の端に座っていた別の貴族が、重い口を開いた。
室内の一斉の視線が、彼へと集中する。
「試した、だと?」
「ああ。我が直轄地にある、最も痩せた畑の一つで、この記述の通りに土を耕させてみたのだ」
「結果は?」
「向上した。それも、通常の誤差とは到底思えぬ規模で、見事な作物が実ったのだよ」
部屋の中に、水を打ったような静寂が降りてくる。
彼らはこれまで、交易商人たちが大袈裟に語るただの誇張話だろうと高を括っていた。
しかし今――自分たちと同じ階級の者が、その奇跡的な成果を自らの手で『証明』してしまったのだ。
一人の若い貴族が、畏怖の眼差しでその書物を凝視した。
「……一体、マコトとは何者なのです?」
その問いに答えられる者は、誰一人としていなかった。
彼らが掴んでいる情報は、あまりにも貧弱だった。
ただの農夫。ルナ村に滞在している。そして、その書物に記されたすべての智慧は、その男が放った何気ない日常の言葉に由来している、ということだけだ。
「そこが最も恐ろしいのだ」
先ほどの初老の貴族が、低く呻くように呟いた。
「もし本当にただの農夫であるならば……これほど完璧な学術的智慧が、一体どこの深淵から湧き出ているというのだ?」
答える声はなかった。なぜなら、その謎の核心は、世界の誰もが未だに観測できていないのだから。
同じ頃、王都の西側に位置する別の大邸宅。
ルナ村への隠密調査から戻ったばかりの使用人が、主人である貴族の前で深く頭を垂れていた。
「ルナ村の様子は、どうだったね?」
主人の問いかけに、使用人は神妙な面持ちで答えた。
「極めて穏やかでございました」
「私兵の訓練を行うような、不穏な動きは?」
「皆無にございます」
「民を扇動する、過激な説教者は?」
「そのような存在は、影も形もございませんでした」
「……ならば、お前は一体何を見てきたというのだ!」
主人が苛立たしげに声を荒らげると、使用人はしばらくの間思考を巡らせ、それから静かに口を開いた。
「主人の姿にございます」
「主人だと?」
「はい。あのお方は、民たちに混ざって用水路の石垣を自らの手で修復されておりました」
「それだけか?」
「はい。その作業が完了すると、今度は一人の幼い子供を呼び寄せ、新しき苗の選別方法を静かに教えておられました」
「それから?」
「その後は……ただ平然と、自らの家へと戻り、昼の食事を摂られておりました」
部屋を、奇妙な沈黙が支配する。
「……それだけか?」
「それだけでございます」
主人の貴族は、ゆっくりと椅子の背もたれに体重を預けた。
各地から集まってくる報告書を読めば読むほど、事態の本質は霧の彼方へと消え去っていく。
いまや王国全土の最高権力者たちがその動向を注視している男が――現地の村では、ただの一介の農夫と全く同じ日常を、平然と消化しているというのだ。
そこには、護衛の兵もいなければ、豪奢な装飾もなく、大仰な儀式も、高圧的な説教も存在しない。ただ日々、実直に作業を継続しているだけ。
「――だからこそ、民はあれほど盲信しているのか」
主人の唇から、無意識のうちに呟きが漏れ出た。
使用人が不思議そうに顔を上げる。
「旦那様?」
主人の貴族は、どこか諦念を含んだような薄い笑みを浮かべた。
「どれほど多くの民から神の如く崇められようとも、その生活を一切変えず、ただ実直に土を弄り続ける……。それはつまり、あのお方が名誉や権力といった俗世の価値を、鼻から『求めていない』という何よりの証左ではないか」
使用人は、その言葉の重みに、深く首を縦に振った。
「――まさに、現地で私が感じたのも、その通りの畏怖にございました」
数日を待たずして、王都の貴族たちの間で、あの無骨な聖典の写本を求める動きは限界突破の速度へと達した。
ある者は腹心の使用人を走らせ、ある者は直々に荷馬車を仕立て、またある者はルナ村から戻る交易商のルートを買い占めてまで、その智慧を手に入れようと躍起になった。
彼らは誰も、自分たちが新興宗教の傘下に加わっているなどとは夢にも思っていない。彼らが望んでいるのはただ一つ。
なぜ、一人の農夫の言葉が、これほどまでに無数の農村の構造を劇的に塗り替えているのか、その論理的な核心を掴むことだけだった。
一方その頃――ルナ村では。
主人が、雨のせいで倒壊してしまった畑の木柵を、ハンスと共に黙々と修復していた。
「ハンス。この箇所の接合が緩んでいるよ」
主人が指し示すと、ハンスが慌てて木槌を握り直した。
「あ、はい、主人!」
「このまま放置すれば、全体の強度が低下し、いずれ木柵全体が傾斜する原因となる。基礎の固定が最優先だ」
「分かりました!」
ハンスは主人の実直な指示に従い、静かに木槌を打ち込んでいく。
その時、広場の向こうから、両手に真新しい紙束を抱えたセリアが、幽霊のような足取りで近づいてきた。彼女は主人の数歩手前で足を止め、力なく声をかけた。
「……主人」
「ん? 何かな、セリア」
「また、新しい書状が届きましたわ」
「量が多いのかい?」
セリアは、青ざめた顔のまま深く頷いた。
「ええ……。それも今回の差出人は、すべて『貴族諸侯』の皆様からにございます」
主人は、少し意外そうに小首を傾げた。
「貴族? 彼らが私に何のアプローチを行うというんだい?」
「はい……。彼らは全員、あの聖典の写本を融通してほしいと、直々に要請してきているのですわ。主人の智慧を、自らの領地でも学びたい、と」
主人は数秒間思考し、当然の正論として短く頷いた。
「それは極めて好ましい傾向だね」
「――え?」
セリアが虚ろな目を向けると、主人は飾らない本心から淡々と出力した。
「より多くの人間が論理的な農法を学び、土壌の管理技術を向上させるならば、この世界の食糧生産力は飛躍的に向上する。それは全体の負担を軽減し、飢餓による人口減少を抑制するための最も合理的な手順だ。彼らが学びたいというのであれば、拒む論理的理由は存在しないよ」
セリアは、主人のその真っ直ぐな瞳を、ただじっと見つめるしかなかった。
主人の言葉には、一片の誇りも、名誉欲も、世界を支配しようという野心も含まれていなかった。ただただ、この世界から不条理な飢えを減らしたいという、あまりにも実直で、あまりにも切実な、ただそれだけの願いだった。
しかし――彼女の手元にあるのは、他領の有力な貴族たちの、格式高い家紋の刻印が血判のようにびっしりと並んだ、大量の公式文書の山なのだ。
彼らは全員、辺境の農夫である主人の足元に跪き、その智慧を乞うている。
主人が全く意図していないその裏側で――かつてただの一つの小さな農村から始まったあの奇妙な勘違いの火種は、ついに国家の支配階級である『貴族社会』をも完全に侵食し、その巨大な組織の傘下へと組み込み始めていたのだった。




