第116話 国王の困惑
アルセニア王国の王都。
その中心には、数百年にわたりこの国を統治してきた堅牢なる王城が、泰然とそびえ立っていた。
その日の朝、謁見の間には、太陽が東の地平線から顔を覗かせるよりも早くから、ただならぬ緊張感が漂っていた。
一人の老政務官が、玉座の前で深く腰を折っている。
「国王陛下」
国王は、机の上に山積みにされた公文書からゆっくりと顔を上げた。
「……新しい報告か」
「はい。こちらを」
老政務官は数枚の羊皮紙を恭しく差し出した。
「各地の交易路を巡る商人たちから集められた、最新の監視記録にございます」
国王はそれを受け取り、一瞥をくれた。最初はいつも通りの退屈な地方の陳情書だろうという面持ちだったが、読み進めるにつれて、その重厚な眉が徐々に中央へと寄せられていく。
「――『聖典』、だと?」
国王の唇から、低く掠れた声が漏れた。
「これは一体、何のアプローチだ?」
「民たちの間では、農業に関する智慧の書と噂されております」
老政務官が冷汗を拭いながら答えた。
「しかし……単なる農作の手順を記した書物ではないようでございます」
国王は再び羊皮紙に目を落とした。そこには、各地の隠密から寄せられた奇怪な事実がびっしりと書き連ねられていた。
各地で正体不明の『学び舎』が乱立している。いくつかの集落の民が、毎晩のように一堂に会している。彼らは互いに一本の書物を狂ったように書き写し、知識を共有している。
そして――そのすべての異常増殖の源流は、ただ一つの辺境の農村に帰結していた。
「ルナ村、か」
「はい」
「これは、私塾の類いか?」
「確認できません」
「ならば、職能組合か?」
「いいえ」
「……では、王立の学術院のような組織なのか?」
「それも違います」
国王は苛立たしげに羊皮紙を机に叩きつけた。
「ならば、あれは一体何なのだ!」
老政務官は沈黙し、ただ困惑の表情を浮かべるしかなかった。
「それが……説明が極めて困難なのでございます。彼らは民から一切の対価を徴収せず、組織内の地位を売買することもなく、私兵を組織する兆候もなく、独自の税を課しているわけでもありません。彼らが日々行っているのは、ただ集まり、書物を読み、議論を交わし、互いに農作の技術を教え合っている……それだけなのでございます」
国王は再び、机の上の書類を凝視した。
それだけの無害な営みであるならば、なぜ王国の最高機密を扱う隠密たちが、これほどまでに逼迫した報告を上げてくるのか。
彼は次の頁をめくった。そこには、すべての報告書において、まるで呪いのように何度も繰り返し登場する一人の男の名が刻まれていた。
「――マコト」
国王はその名を低く唱えた。
「この男は、何者だ?」
「現在、総力を挙げて身元を調査中でございます」
「素生は?」
「判明しておりません」
「親族や血縁は?」
「一切の記録が存在しません」
「出自や過去の経歴は?」
「まるで世界に突然現れたかのように、過去の足跡が完全に抹消されております」
国王は深く、重いため息を漏らした。
「不可解極まりないな」
「はい。調べれば調べるほど、情報が反比例して減少していくのでございます。我々が掴んだ唯一の確実な事実は……その男が現在、ルナ村に滞在し、ただの『一介の農夫』として土を弄っているということだけでございます」
国王は信じられないといった風に首を振った。
ただの農夫。しかし、その名と言葉は、すでに王国の心臓部である王都の裏路地にまで浸透している。その事実自体が、長年統治の椅子に座ってきた国王の直感に、言語化できない巨大な不協和音を響かせていた。
その時、謁見の間の重厚な扉が再び開き、別の政務官があわただしく入ってきた。
「国王陛下!」
「まだ何かあるのか?」
「はい、東方の諸侯より、第二の緊急報告が届きました」
差し出された新たな書類を、国王はひったくるように奪って目を通した。文面を追ううちに、国王の顔から血の気が引いていく。
東方の有力な貴族たちが、こぞってあの無骨な聖典を収集し始めているというのだ。中には、自らの腹心の使用人を直々にルナ村へと派遣し、写本の融通を乞うている者すらいる。
国王はゆっくりと、玉座の背もたれに体重を預けた。
「……なぜだ」
その呟きは、誰に向けられたものでもなかった。
「彼らは、あの書物の何に魅了されているのだ?」
新しく入ってきた政務官が、実直に答えた。
「我々にも、未だその核心は掴めておりません。ただ、貴族たちが口を揃えて言うには……あの書物に記された智慧が、領内の農村の構造を根本から変革しつつある、と」
国王は再び沈黙の深淵へと沈んでいった。
数十年にわたる治世において、彼はあらゆる危機を乗り越えてきた。
不平分子による反乱、未曾有の凶作、天災の猛威、諸侯同士の血生臭い利権争い。
それらの事象には、必ず明確な『型』が存在した。敵の目的が権力であれ、金銭であれ、領土であれ、動機さえ分かれば論理的な対処が可能だった。
しかし――今回目の前で急速に膨れ上がっているこの現象には、これまでの統治の常識が一切通用しなかった。
彼らは権力を求めていない。
金銭を貪ることもない。
武器を手に取る兆候すら皆無だ。
ただ、集まって学んでいる。
そして、その「ただ学んでいるだけ」という一点こそが、国王を極限の困惑へと突き動かしていた。
もし彼らが明確な悪意を抱いているならば、王国は法をもってこれを断罪できる。
もし彼らが反旗を翻すならば、精鋭たる騎士団を派遣して一網打尽に圧殺すれば済む。
しかし――ただ互いに農作の智慧を教え合い、飢えを凌ごうとしているだけの無垢な民に対して、一体どのような大義名分をもって刃を向ければ良いというのか。
国王は窓の外へと視線を投げた。遥か眼下には、朝の活気に満ち溢れた王都の巨大な街並みが広がっている。
「……調査を継続せよ」
国王は、自らに言い聞かせるように低く命じた。
「特に――マコトと呼ばれるあの男の動向を、一瞬たりとも見失うな」
「はっ、御意にございます、陛下」
政務官たちは深く一礼し、影のように静かに謁見の間を退室していった。
静寂が戻った広大な部屋で、国王は自らの手元に残された、隠密が回収してきた本物の聖典の一冊をじっと見つめていた。
彼はゆっくりと、その無骨な頁をめくった。
そこに記されているのは、魔法の呪文ではない。
民を扇動する危険な思想の教条でもない。
ましてや、王権を転覆させようとする陰謀の言葉でもなかった。
そこにあったのは、ただの土について、水について、種についての実直な記録。そして、マコトという一人の農夫の、あまりにも飾り気のない日常の会話の断片だけだった。
国王は、頁を閉じる自らの手が、かすかに震えていることに気づいた。
「……恐ろしいな」
その呟きが、冷え切った謁見の間を虚しく回る。
「――これほど貪るように読み込んでも、なぜ国中の者がこの男の言葉に狂狂しているのか、私には微塵も理解できんのだからな」




