第115話 王都進入
新たな季節の訪れは、見慣れぬ交易商の一団をルナ村へと連れてきた。
彼らの駆る荷馬車は、いつものように村長の家へと立ち寄り、次の旅路に向けた休息の時間を取っていた。
しかし――今回ばかりは、彼らの口から漏れる会話の質が、これまでとは全く異なっていた。
薄暗い応接間。一人の老商人が、出された温かいお茶を喉に流し込みながら、深く椅子に腰掛けていた。
その衣服には幾層もの塵がへばりついており、過酷な長旅を経てきたことが一目で見て取れた。
モーレンは器に新しいお茶を注ぎ足しながら、穏やかに問いかけた。
「随分と遠くから来られたようだがね」
老商人は深く頷き、声を低くした。
「ああ。王都から、直行でここまで来ました」
その一言に、室内が一気に張り詰めた静寂に包まれた。
「……王都、ですって?」
ハンスが驚愕のあまり、目を瞬かせる。
「ええ。本来の交易路を大きく外れて、わざわざこのルナ村へ立ち寄らせてもらったのさ」
「なぜ、そのような真似を?」
「王都で耳にした『奇妙な噂』が、どうしても気になってな。自分の目で、確かめずにはいられなかったのだよ」
卓の上で書状を整理していたセリアは、不吉な胸騒ぎを覚えて急ぎ顔を上げた。
「噂、というと?」
老商人は室内の者たちを一人ずつ見回し、それから懐へと手を伸ばした。
「――『聖典』についてだ」
セリアの背筋を、冷たい戦慄が駆け抜ける。
「その書物に、一体何があったというのですの?」
老商人は、自らの旅嚢から一冊の書物を取り出し、机の上へと厳かに置いた。
その表紙は酷く簡素なものだったが、綴じ紐の結び方や革の断裁の方法が、ルナ村で作られている写本とは明らかに異なっていた。明らかに別の職人の手による代物だ。
しかし――そこに刻まれた文字列を盗み見たモーレンは、思わず息を呑んだ。
「これは……我らの村の、写本と同じ内容ではないか」
「その通りさ」
老商人は首を縦に振った。
「私はこれを、王都の片隅で見つけたのだよ」
部屋の中に、落雷を受けたかのような沈黙が降りてくる。ハンスが何度も、信じられないといった風に目を瞬かせた。
「どうして、そんな場所にあるんだよ……」
「それこそ私が聞きたいくらいさ。この書物を見てごらんなさい」
老商人がいくつかの頁をめくると、紙の余白には無数の細かな書き込みや、手垢で黒く汚れた痕跡がびっしりと残されていた。幾度となく、大勢の間に回し読みされた証拠だった。
「多くの民がこの本を借り受け、それを書き写し、さらにその写本が別の者の手へと渡っていく。いま、王都の裏路地では、そのような現象が起きている」
セリアは、弾かれたように椅子から立ち上がった。
「王都……。すでに、あのような場所にまで到達しているというのですの?」
「ああ。まだほんの一部の界隈だがね。だが、確実に広まりつつある。私は実際、夜の広場でこの書物を囲み、主人の智慧について熱っぽく語り合う民たちの姿を目撃したのだよ」
モーレンは、机の上の書物を凝視したまま動けなくなった。
このルナ村から王都へ至るには、険しい街道を馬車で何週間も進まねばならない。
それはつまり――この無骨な聖典が、何人もの民の手を経由し、誰が命令するでもなく、誰が運ぶでもなく、ただ『真理を求める熱意』という名の濁流に乗って、自律的に王都の城門を突き破ったという事実に他ならなかった。
その時、食堂へと通じる木扉が開き、主人が一籠の真新しい作物の苗を抱えて入ってきた。
「ハンス。そちらの土壌サンプルは回収したよ」
「あ、主人!」
ハンスが居住まいを正すと、主人は老商人の存在に気づき、短く一礼した。
「歓迎するよ。遠方からの来客だね」
「ありがとうございます、主人様。実は、あなた様にどうしてもお伝えしたい重大な報せがございます」
「報せ?」
「はい。主人様の智慧が記されたあの聖典が、ついに王都へと到達いたしました!」
主人は数秒間、その言葉の構造を解析するように思考し、それから当然の帰結として淡々と答えた。
「なるほど。物流の速度が、想定よりも向上しているようだね」
「……え?」
老商人が、呆気にとられたように声を漏らす。主人は淡々と続けた。
「情報が現地に直接流通しているならば、王都の民たちがわざわざ膨大な時間を浪費して、この辺境のルナ村まで足を運ぶ必要がなくなる。これは移動コストの大幅な削減だ。極めて好ましい進展と言えるね」
老商人は、その深い回答に顔を紅潮させ、至高の笑みを浮かべた。
「――ああ、さすがは主人様だ! まさに、我々もそのように考えておりました!」
セリアは、絶望のあまり机に両手を突き、きつく両目を閉じた。
まただ。またこの完璧なすれ違いだ。
主人はただ、情報の流通と移動コストの観点から「効率的で良いことだ」と客観的なデータを出力しただけだ。しかし、この老商人の歪んだ脳内フィルターを通過した瞬間、それは王都への『思想侵入の成功』を祝福する、絶対的な神託へと変換されて届いているのだ。
老商人はさらに興奮を帯びた手つきで、自らの旅嚢から一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、びっしりと文字列が書き連ねられていた。
「主人様、実はもう一つ、これをお渡ししたく」
「それは何のアプローチだい?」
モーレンが問いかけると、老商人は誇らしげに答えた。
「王都の民たちの間で、聖典の追加注文を望む声があまりにも強くなりましてな。これは、写本の融通を求めている者たちの名簿にございます」
「注文だと? 一体、何人いるのだね?」
モーレンがその名簿を受け取り、震える指で名前を一人ずつ数え上げていく。
十人。二十人。三十人。四十人。
その名前の連なりは留まることを知らず、最後の行に至った時、モーレンの唇から掠れた呟きが漏れ出た。
「――五十三人」
「はい?」
「五十三人もの王都の民が、無断で署名をしている……」
老商人は深く頷いた。
「ええ。これは私が直に接触できた者たちだけの数です。実際には、その何倍もの民が、主人様の智慧を求めて夜も眠れぬ日々を過ごしておりますよ」
セリアはその名簿をモーレンからひったくるように奪い、その文字列を凝視した。彼女の指先が、小刻みに震える。
五十三人。
彼らは全員、このルナ村に一度も足を踏み入れたことがない。主人という存在に、直にまみえたこともない。
それなのに――ただの、飾り気のない否定から始まった聖典を貪り読み、その言葉の裏にある「存在しないはずの深淵」に魅了され、自らの意志でこの名簿に名前を刻み込んだのだ。
「……なるほど、ようやく理解できましたわ」
セリアの唇から、乾いた低い声が漏れた。
「司祭様、何か?」
ハンスの問いかけに、セリアは虚ろな目を向けた。
「いま、世界を侵食しているものは、あの白亜の教会でも、木造の学び舎という建物でもありませんわ」
「え?」
「――人間ですわ」
民たち自身が、主人の奇跡を語り、主人の聖典を書き写し、それを次の者へと手渡していく。
彼ら自身が、この巨大な信仰を増殖させるための『媒体』となっているのだ。
指揮を執る中心地など存在しない。命令を下す指導者もいない。
だからこそ、どこを突いても、どこを弾圧しても、この異常な連鎖を止めることは天文学的に不可能なのだった。
セリアはゆっくりと窓の外へと視線を投げた。
広場では、主人がすでに一籠の苗を抱え、次の農作業に向けて淡々と歩みを進めている姿が見える。主人の足取りは、数か月前と何一つ変わらず、どこまでも静かで、実直だった。
主人は、未だに何も気づいていない。
自分がただの辺境の一事務官として、土にまみれて日課をこなしているその裏側で――かつてただの一つの小さな農村から始まったあの奇妙な勘違いの火種が、いまや王国の心臓部である『王都』の巨大な城門を、完全に突き破って内部へと進入してしまったという、恐ろしい現実に。




