第114話 第三の支部
季節が巡り、ルナ村を包む風がにわかに冷涼さを帯び始めても、この集落の時間はいつもの通りに流れていた。
主人は一日の大半を相変わらず畑で過ごしている。
朝は新しき苗の状態を点検し、昼は用水路の細かな石組みを修復し、夕方は次の季節に向けて種を選別する農民たちに囲まれて実直に助言を与える。主人の主観において、自らの営みには何一つの変化も生じていなかった。
しかし――村長の執務室では、机を埋め尽くさんばかりに積み上がった書状の山が、その平穏の裏で起きている異常事態を雄弁に物語っていた。
モーレンは、今や木製の天板が見えなくなるほどに溢れかえった紙束を前に、深い溜息を吐き出した。
書状の差出人は、他領の商人、見知らぬ土地の村長、あるいは名前すら記されていない匿名の民など多岐にわたる。
だが、そこに綴られている文面の本質は、恐ろしいほどに一様だった。
聖典の新たな写本を求める切実な請願。ルナ村から農業の指導者を派遣してほしいという熱烈な懇願。そして、各地で雨後の筍のように誕生している『集会』の活動報告。
セリアはその山の前に座り込み、幽霊のような手つきで一通ずつ封を切っていた。
読み進めるにつれて、彼女の美貌からあらゆる色彩が失われ、表現のしようのない絶望の相へと変わっていく。
――一通目。『我が集落の学びの徒は、ついに自前の建物を構えるに至りました』。
――二通目。『毎晩、五十人を超える民が集まり、主人の智慧を唱和しております』。
――三通目。『隣村の者たちも、我らの集いに合流し、共に聖典を読み解き始めました』。
セリアは、震える指先で静かに紙を閉じた。
彼女が次の書状に手を伸ばすよりも早く、外からせわしない足音が響き、部屋の木扉が勢いよく開かれた。
「失礼いたします!」
室内に駆け込んできたのは、一本の大きな布の巻物を抱えた村の若者だった。
「また新しい書状かね?」
モーレンが身構えるように問いかけると、若者は首を横に振りながらその巻物を机の上へ差し出した。
「いえ、書状ではありません。南方の交易路から届けられた、地図にございます」
「地図、だと?」
モーレンが怪訝そうにその紐を解き、机の上へ大きく広げた。
それは単なる地形図ではなかった。南方に位置するいくつかの集落の境界が描かれており、そのうちの三つの村の頭上に、鮮血を思わせるほど鮮やかな『朱色の円環』が不気味に描き加えられていたのだ。
「これは……一体何の印だね?」
若者は興奮を隠しきれない様子で、胸を張って答えた。
「新しく誕生した、主人の智慧を学ぶための拠点にございます! 向こうの民たちが、本山であるこのルナ村の台帳にぜひ記録してほしいと、直々に送ってきたものであります!」
セリアは、弾かれたように椅子から立ち上がった。その瞳が、地図の上の三つの円を凝視する。
「――三つ? 三つもあるというのですか!?」
「はい! そのうちの一つは、昨日の夕刻に建築が完了したばかりだそうでございます!」
モーレンは、机に両手を突いたまま動けなくなった。彼は震える指先で、地図の上の印を一つずつ、確認するように指し示していく。
「この東の印が……最初の、第一の支部」
「ええ」
「そして、この西の印が……第二の支部」
モーレンの指が、最後の一際大きな朱色の円の上でぴたりと止まった。
「ならば……この南の地に現れたのは、第三の支部、ということか」
部屋の中に、落雷でも落ちたかのような凄絶な静寂が降りてきた。誰も、言葉を発することができない。
三つだ。
彼らが何の手を打つ暇もないほどに短い期間で、同じ思想を持つ拠点が、すでに三箇所も誕生してしまったのだ。
それぞれの土地で、民たちは異なる名称を用いているという。
『主人の学び舎』、『豊作の家』、あるいは『聖典の集い』。
しかし――その名称がどれほど欺瞞に満ちていようとも、内部で行われている行為の本質は寸分違わない。
民が集まり、議論を交わし、主人が何気なく放った言葉を一字一句違わずに復唱し、互いに教育を施し合っている。そしてその集会に詰めかける人間の数は、一週間が過ぎるごとに倍数的に膨れ上がっているのだ。
セリアは、卓上の地図を見つめたまま、魂の抜けたような声で小さく呟いた。
「私は……」
その拳が、白くなるほど強く握り締められる。
「私は、ルナ村のただ一つの教会すら、まだ解体できていませんのよ。それなのに、もう三つも増えているなんて……」
モーレンは自らの生気の失せた額を右手で覆い、呻くように言った。
「このまま手をこまねいていれば……この増殖は、我が領地だけでなく、いずれ国全体へと広がっていくぞ……」
その時、裏庭からの涼しい風と共に、主人が静かに部屋へと足を踏み入れてきた。作業を終えたばかりの主人の衣服には、わずかに土の香りが残っている。
主人は、机の上に仰々しく広げられた地図の巻物に視線を留めると、淡々と歩み寄ってきた。
「モーレン。それは、何のアプローチの図面だい?」
「あ、主人……」
モーレンは居住まいを正し、掠れた声で答えた。
「これは……主人の教えを学ぶために、民たちが独自に集まっている場所の地図にございます」
主人は、三つの朱色の円環を客観的なデータとして観察し、冷徹に分析した。
「ルナ村の座標から見れば、随分と物理的な距離が離れているね」
「ええ、そうですわ……」
セリアが絶望を堪えるような、か細い声を絞り出す。
「彼らはもう、私たちの手の届かないところで、勝手に学び始めているのですわ」
すると、主人はその平坦な表情のまま、わずかに満足そうに小首を傾げた。
「それは、極めて合理的な進展だね」
室内の全員が、驚愕のあまり弾かれたように主人を振り返った。
「……なぜ、そう思われるのですの?」
セリアが問いかけると、主人は当然の正論として淡々と出力した。
「民たちがそれぞれの地域で知識を共有し、互いに教育を施し合えるインフラを確立したならば、彼らはわざわざ膨大な時間と労力を費やしてルナ村まで移動する必要がなくなる。これは移動コストの大幅な削減であり、労働効率の観点から見ても、極めて正しい資源の分散配置だ」
その回答は、どこまでも論理的であり、組織運営の観点から見れば一ミリの瑕疵もない完璧な正論だった。確かにその通りだ。知識が現地で循環すれば、民が長い旅路を歩む必要はなくなる。
しかし――その主人の「極めて合理的な評価」が、モーレンの歪んだ脳内フィルターを通過した瞬間、全く別の恐るべき意味合いへと変換されて届いてしまった。
モーレンの脳裏には、三つの拠点が互いに智慧を交わし合い、そこからさらに無数の村々へと教えが伝播し、やがて巨大なネットワークとなって王国を覆い尽くす光景が、鮮明な映像として浮かび上がっていた。主人の言った「資源の分散配置」とは、つまり――世界を効率的に塗り替えるための、戦略的な『包囲網の形成』を意味しているのではないか。
「いや……」
モーレンは恐怖に身体を震わせ、激しく首を横に振った。
「いかん、これ以上は考えるな。深淵を覗いてはならん……」
しかし、一度生まれてしまった畏怖の妄想は、もはや彼の精神から消し去ることはできなかった。
セリアは、それ以上その光景を見ていられなくなり、無言のまま地図の巻物を乱暴に丸め込んだ。
彼女のその動作は、まるで自らの目の前に突きつけられた、残酷な現実から目を背けようとするかのようだった。
彼女は理解していた。これは、終わりなどではない。本当の地獄は、ここから始まるのだ、と。
なぜなら、この日ルナ村の外側で誕生したものは、単なる『第三の支部』という一つの建物ではなかったからだ。
誰の命令も介さず、ただ主人の智慧という共通の真理によって強固に結びついた、自律増殖する『巨大な情報網』。
それは、ただの一つの教会を弾圧して取り潰すよりも、何億倍も不可能な、絶対に破壊することのできない怪物の完成を意味していたのだった。




