第112話 新たな分派
それから三日の月日が流れた。
その日の朝、一台の荷馬車が砂煙を上げながらルナ村へと入ってきた。
馬車は真っ直ぐに進み、村長の家の真ん前でぴたりと足を止める。
御者台から降りてきたのは、一本の長い木箱を大事そうに抱えた初老の男だった。その衣服は旅の塵で白く汚れており、遠方から長い時間をかけてやってきたことが一目で見て取れた。
「村長殿!」
男は木箱を抱えたまま、深く腰を折って挨拶をした。
家から出てきたモーレンが、怪訝そうな面持ちでそれを迎え入れる。
「ようこそ。私に何か用かな?」
「はい、折り入ってご報告したい件がございまして」
モーレンは男を家の中へと促した。
応接間では、セリアが机の上に広げられた何通もの書状を精査している最中だった。
新たな来客の気配を察し、彼女は静かに羽ペンを置いた。
男は机の上に長い木箱を置き、恭しくその蓋を開け放った。中に入っていたのは、数冊の書物だった。
どれも簡素な紐で綴じられた粗末な作りのものだったが、その形状には見覚えがありすぎた。主人の言葉を記録した、あの聖典の写本だ。
セリアはわずかに眉をひそめた。
「それは……先月、私たちが他領へ向けて送り出した写本ではありませんの?」
男は熱を帯びた瞳で深く頷いた。
「その通りでございます、司祭様」
「何が問題でもあったのですか?」
「いえ、滅相もない! 私たちはただ……その後の成果を、どうしても本山へご報告したく、こうして馳せ参じた次第です」
セリアの胸の奥で、不吉な予感がじわじわと鎌首をもたげ始めた。
「成果……、ですって?」
男は興奮を隠しきれない様子で、何度も身を乗り出した。
「我が村では現在、毎週一度、すべての民が集まる会合を開いております」
モーレンが目を丸くした。
「会合だと?」
「はい。最初はわずか五人ほどで集まり、聖典を読み合うだけでした。それが十人になり、二十人になり……今や、村のほぼすべての者が集まり、主人の言葉を拝聴しているのです」
セリアは瞬きもせず、硬直したまま男を凝視した。
「それで?」
「そこで、私たちは考えたのです」
男は少し極まり悪そうに、しかし誇らしげに微笑んだ。
「やはり、皆で集まるための『特別な場所』があった方が良いのではないか、と」
部屋を、重苦しい沈黙が支配する。
モーレンが恐る恐る、確認するように問いかけた。
「特別な場所、というと?」
「はい。民たちが一堂に会し、主人の聖典を読み、議論を交わし、共に学び合うための場所です」
セリアは弾かれたように椅子から立ち上がった。
「待ちなさい! あなた方……まさか、自分たちの村にも『教会』を建てたというのですか!?」
「いえ、とんでもない!」
男は慌てて両手を振り、声を荒らげた。
「私たちのような浅はかな民が、畏れ多くも『豊作教会』の名を騙るなど、決して許されることではありません!」
セリアは、その言葉に一瞬だけ胸をなでおろしかけた。
しかし――男が次に放った一言が、彼女のささやかな希望を木端微塵に粉砕した。
「私たちはその場所を……『主人の学び舎』と名付けました」
再び、部屋に静寂が戻ってくる。
男は胸を張り、至高の栄誉を語るかのように続けた。
「このルナ村と同じように、すべての民が主人の智慧を学べるようにしたかったのです。ただ農作業の手順だけでなく、生き方そのものを。そのための学び舎です」
セリアは眩暈を覚え、ゆっくりと両目を閉じた。
モーレンが咳払いをし、低く問いかける。
「……建築は、すでに完了しているのか?」
「いえ、まだ発展途上の簡素な代物です。ただの粗末な木造の建物に過ぎません。ですが、毎晩のように民たちで満員になっております」
男は木箱の底から、数枚の羊皮紙を取り出した。そこに描かれていたのは、建物の見取り図だった。
規模こそ小さい。しかし――その構造は、この村にある豊作教会の聖堂と酷く酷似していた。
前面には民が集うための広い空間があり、中央には聖典を据えるための頑丈な机が置かれ、奥には書き写された写本を厳重に保管するための棚が据えられている。
セリアは、その図面を凝視したまま動けなくなった。
そこには、宗教的な紋章もなければ、神を祀る祭壇も、主人の偶像も存在しない。
しかし――果たしている機能は、完全に『教会』のそれと同じだった。
人々は集まり、聖典を読み、主人の放った言葉を次の世代へと伝えている。
「そんな……」
セリアの唇から、掠れた声が漏れ出た。
「もう一つ、増えてしまったというのですか……」
男は不思議そうに小首を傾げた。
「司祭様、何か?」
セリアは激しく首を振った。
「いいえ……何でもありませんわ」
その時、裏庭へ通じる木扉が開き、主人が姿を現した。その両手は、先ほどまで土を弄っていたせいで黒く汚れている。
「モーレン。そちらの作業は完了したよ」
主人が淡々と告げると、モーレンが慌てて居住まいを正した。
「ああ、お疲れ様です。主人、実は遠方からの来客がありまして」
主人は小さく頷き、初老の男へと視線を向けた。
男は弾かれたように立ち上がり、その場に平伏せんばかりの勢いで頭を下げた。
「主人様! 我が村をお救いいただき、本当にありがとうございます!」
主人は不可解そうに首を傾げた。
「感謝される理由が見当たらないね。私は君の村へ行った覚えはないが」
「あのお方がお書きになった聖典のおかげで、我が村の農作環境は劇的に改善されました。村の未来が変わったのです!」
主人は即座に、冷徹な事実を口にした。
「私は聖典などという非論理的な書物は執筆していないよ」
男は、すべてを察したかのような深い笑みを浮かべた。
「ええ、存じております。実際に筆を執ったのは記録係の皆様だと聞き及びます。しかし、そこに記された智慧の源泉が主人様であることは、動かしようのない事実です」
主人は数秒間、その言葉の構造を解析するように思考し、それから短く問いかけた。
「……それで、君たちは何をしているんだい?」
「はい。私たちは、村の全員がその智慧を学び合えるようにしております」
「それは合理的な選択だね」
主人は、事実に対する客観的な評価として頷いた。
「知識を共有し、互いに教育を施すのは、労働効率を高める上で極めて正しいアプローチだ。全体の負担が軽減される」
男は深く、深く腰を折った。
「――ああ、やはり主人様もそう思われていたのですね! 私たちの選択は間違っていなかったのだ!」
セリアは絶望のあまり、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
まただ。またこのパターンだ。
主人は、ただの労働効率の観点から「良いことだ」と事実を口にしただけだ。しかし、この狂信的な男の耳には、それこそが新しい活動に対する『至高の承認』と『神の祝福』として変換されて届いてしまったのだ。
男が感激の涙を流しながら退出していった後、部屋には再び重苦しい静寂が戻ってきた。
モーレンは、手元に残された見取り図を複雑な表情で見つめている。
「……セリア様。客観的に見れば、あれは確かに教会でも宗教施設でもなく、ただの学び舎ですが」
セリアは力なく、しかし冷徹に首を振った。
「いいえ……あれは、どう見ても教団の『分派』ですわ」
「分派、ですか」
「ええ。名前がどれほど素朴であろうとも、行われている儀式の本質は同じです。民が集い、主人の御言葉を復唱し、それを周囲に伝播させている。そして、さらなる信徒を呼び寄せようとしている……」
セリアは窓の外へと視線を投げた。
広場の向こうでは、主人がすでに次の農作業に向けて、淡々と歩みを進めている姿が見える。
主人は、未だに何も気づいていない。
自らがただの一度も命令を下さず、ただの一度も指導者を任命していないにもかかわらず――豊作教会という名の怪物の『最初の子教団』が、このルナ村の外側で、産声を上げてしまったという恐ろしい事実に。




