第111話 拡大する教団
主人が大演説を行ってから、数日の月日が流れた。
ルナ村は、再びいつもの穏やかな静けさを取り戻したかのように見えた。
少なくとも――表面上は、その通りだった。
主人は何一つ態度を変えることなく、以前と全く同じ日課を淡々とこなしていた。
朝は畑の状態を巡回して観察し、昼は農民たちに混ざって土にまみれ、夕方は崩れかけた用水路の石垣を器用に修復する。主人の刻む時間に、一ミリの揺らぎも狂いも存在しなかった。
しかし――ルナ村の境界線の外側では、目に見えない巨大な地殻変動が確実に始まりつつあった。
ある日の午後、ルナ村から数里離れた小さな集落に、一台の荷馬車が到着した。
御者の商人が荷台から商品を降ろすよりも早く、待ちきれないといった様子の村人たちが、またたく間に馬車を囲い込んでいく。
「おい、商人さん!」
「主人は……ルナ村のあのお方は、お元気でいらっしゃるのか?」
商人は誇らしげに胸を張り、深く頷いて見せた。
「ああ、極めて壮健であらせられたよ」
「おお、お労しいことだ……。それで、噂は本当なのか? あのお方はご自身のことを『豊作の神ではない』と、本当にはっきりと仰ったのか?」
「私のこの耳で直に聴いたとも。主人は民たちの前で、自分は神などではないと、一点の迷いもなく宣言されたのだ」
集まった村人たちは、一瞬だけ厳かな沈黙を共有し、それから互いに顔を見合わせて深く感銘したように溜息を漏らした。
一人の白髪の老人が、震える手で天を仰ぎ、静かに微笑む。
「――やはり、本物だったか」
「どういうことです、長老?」
「主人はどこまでも謙虚であらせられる。どれほど崇められようとも、決して驕らず、自らを飾ろうとはなさらん。語り継がれてきた通りの、真に気高き御方だ」
周囲の者たちも、深く得心したように何度も頷き合った。
彼らは誰も、まだ直にマコトの姿を見たことはない。
しかし、農民たちに奇跡の技術を授けた者の話は、すでに国境を越えるほどの勢いで広がっていた。崇拝を拒絶し、権力を退け、ただただ事実のみを語る至高の存在。
その姿を見届けて帰ってきた旅人たちの言葉によって、実在する奇跡の物語は、彼らの心の中でより一層確固たる真実へと昇華されていくのだった。
また別の農村では、一人の若者が広場の中心で、新しく書き写されたばかりの聖典を読み上げていた。
数十人の民たちが、土の上に車座になってその声に耳を傾けている。
若者は、まだ墨の香りが残る真新しい頁を開いた。
「――『私は豊作の神ではない』。主人の御言葉は、この一文から始まります」
広場を、水を打ったような静寂が包み込む。
その時、最前列にいた小さな子供が、不思議そうに手を挙げた。
「お兄ちゃん」
「どうしたんだい?」
「主人が豊作の神様じゃないなら、どうして私たちはこの本をお勉強しているの?」
若者は、その無邪気な質問に、どこまでも優しい笑みを返した。
「良い質問だね。それはね、私たちが学んでいるのは、主人の『肩書き』ではないからだよ。あのお方が示してくださる、どこまでも真っ直ぐで嘘のない『生き方』そのものを、私たちは学んでいるんだ」
子供は、まだ完全には理解できないといった風に首を傾げたが、周囲の大人たちの顔に浮かぶ真剣な眼差しを見て、神妙に頷いた。
彼らは言葉の意味を超えた、主人の実直な精神を、その魂で確かに感じ取っていた。
さらに離れた交易都市の片隅でも、市場が閉まった後の酒場に商人たちが集まり、同じ話題に花を咲かせていた。
「ルナ村から戻った交易仲間と話したのだがね」
「ほう、何か新しい動きでもあったのか?」
「主人は、やはり自分が豊作の神と呼ばれることを完全に拒絶されたそうだ。それを聞いて、私はますますあのお方に謁見したくなったよ」
「なぜだい? 神ではないと言っているのだろう?」
「名誉や権力を追い求めるペテン師なら、喜んでその座に就くだろう。それを頑なに拒み続けるということは、あのお方が本物であり、こちらの想像の及ばない高い領域に立たれているという証拠さ」
このような会話が、命令されたわけでもなく、公式な布教活動が行われたわけでもないのに、人々の口から口へと自然に伝播していった。
それはまるで、ルナ村を訪れたすべての者が、無意識のうちに一粒の『種』を持ち帰り、それぞれの土地で芽吹かせているかのようだった。
一方その頃――ルナ村の村長の家では。
セリアが、机の上に並べられた何通もの書状を前に、青ざめた顔で硬直していた。
それらはすべて、今朝早くに隣国や他領の商隊によって届けられたものだった。
一通目を開く。そこには、主人の教えによって救われたという、見知らぬ土地の民からの熱烈な感謝の言葉が綴られていた。
二通目を開く。それは、自分たちの集落にも書き写した聖典を分けてほしいという、切実な嘆願書だった。
三通目を開く。そこには、豊作教会の教えを広めるために、誰か指導者をこちらの村へ派遣してほしいという、公式な要請が記されていた。
セリアの羽ペンを持つ手が、小刻みに震え始める。
「……そんな、馬鹿なことですわ」
隣の机で、同じく領内の書類を整理していたモーレンが、彼女の異様な様子に気づいて顔を上げた。
「セリア様、一体どうされたのですか?」
セリアは何も言わず、ただ手元の書状の束をモーレンへと手渡した。
モーレンはそれを一通ずつ改め、読み進めるうちに、その厳格な面持ちを驚愕へと変えていった。
「これは……彼らは、自分たちの土地にも教えを学ぶための『集会所』を開きたいと言っているのか」
セリアは力なく首を縦に振った。
「ええ、そうですわ……。これはつまり、豊作教会の影響力が、すでにこのルナ村の境界線を越えて外の世界へと流出してしまった、という証明ですわね」
モーレンは言葉を失い、静かに窓の外へと視線を向けた。
遥か遠くの広場で、主人が一本の農具を手に取り、若い農民にその効率的な修復方法を教えている姿が見える。主人の表情はいつもの通り平坦で、周囲でどれほど巨大な狂気が膨れ上がっているかなど、微塵も気づいていない様子だった。
そして――その「主人が全く意図していない」という一点の純粋さこそが、この信仰の増殖を阻む障壁をすべて消し去り、最悪の加速を生み出しているのだった。
セリアは、ゆっくりと両目を閉じた。
彼女は、ついに認めざるを得ない段階に達したことを悟った。
いま、自分たちの目の前で急速に巨大化しているものは、ただの一地方の素朴な教会ではない。
誰の手にも負えない、世界規模の『宗教団体』だ。
そして、主人が真実を語れば語るほど、その怪物はさらに強固に、どこまでも広がり続けていくのだった。




