第110話 セリアの絶望
夜はすっかり更けていた。
村長の家は、ようやく昼間の喧騒を忘れたかのように静まり返っている。
モーレンはとっくに深い眠りに就いており、ハンスもまた自分の家へと引き上げていった。遠くに見える豊作教会の明かりも、一つ、また一つと消され、ルナ村は深い闇の底へと沈んでいる。
しかし、この家の一室だけは、未だに油灯の淡い光が灯り続けていた。
セリアは、机の前に座り込んだまま微動だにしない。彼女の視線の先には、机の上に散らばる何枚もの羊皮紙の束があった。
――第一次計画。失敗。
――第二次計画。失敗。
――主人による演説。失敗。
――直接の口頭説明。失敗。
――追加の補足説明。失敗。
すべての紙面は、殴り書きされた文字と、絶望のあまり幾度も引き裂かれそうになった爪痕で満ちていた。
一部は一度丸められ、再び力なく広げられたせいで酷く皺寄っている。セリアはそれを、瞬きも忘れたかのような虚ろな目で見つめていた。
主人の助手となってから、気の遠くなるような年月が流れたが、次に打つべき手が全く見浮かばないのは、これが初めての経験だった。
これまで数億年、数兆年という単位で主人と共に働いてきたが、どのような難題であれ、そこには必ず『原因』が存在した。原因さえ特定できれば、論理的な手順に沿って『解決策』を導き出すことができた。
しかし、今回は違う。
セリアにはもう、何がこの異常事態を引き起こしている『本当の原因』なのかすら分からなくなっていた。
原因は、あの教会だろうか。いや、違う。
新しく作られた聖典だろうか。いや、違う。
あの不気味なまでの偶像だろうか。いや、違う。
先ほどの主人の否定演説だろうか。いや、違う。
では――主人自身が原因なのだろうか。
「違う……」
セリアは、自らの恐ろしい思考を振り払うように、力なく首を横に振った。
「主人は、何一つ間違ったことはしていませんわ……」
もし主人がこのルナ村に現れなければ、こんな奇怪な新興宗教が誕生することはなかった。それは事実だ。
しかし、主人はただの一度も、悪意を持って誰かを騙したことはない。それどころか、困っている人々に手を差し伸べ、投げかけられた質問に対してどこまでも誠実に出力し、そしてまた自分の作業へと戻っていっただけなのだ。それ以上のことは何もしていない。
誰も間違っていない。誰も嘘を吐いていない。
だからこそ、この勘違いの暴走を止めることが、天文学的に不可能な領域へと達しているのだった。
静寂を破り、食堂の木製の扉が静かに開いた。
姿を現したのは、両手に温かいお茶の入った器を携えた主人だった。主人はそのうちの一つを、セリアの目の前へと静かに置いた。
「飲むといい」
セリアはゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうございます、主人」
主人は向かいの椅子に腰掛けた。それ以上は何も言わず、ただ温かい液体をゆっくりと口に運ぶ。いつもの通りの、効率的で無駄のない動作だった。
二人の間に流れる沈黙は、決して気まずいものではなかった。数億年の付き合いが、言葉以上の共有を可能にしている。
しばらくして、主人が器を置き、静かに口を開いた。
「まだ、眠らないのか」
「ええ、まだ」
「教会のことを考えているのか」
「……はい」
主人は小さく頷いた。
「疲れたか」
セリアは、泣き出しそうなのを堪えて、かすかに微笑んだ。
「少しだけ、ですわ」
主人の視線が、机の上に山積みにされた羊皮紙の束へと向けられた。
「随分と、量が多いね」
「ええ」
「そのすべてが、失敗の記録か」
主人は再び、セリアの疲弊しきった瞳を見つめた。
「失敗など、確率論における通常の誤差に過ぎない」
セリアは、自嘲気味に低く笑った。
「主人にとっては、そうかもしれませんわね。でも、私にとっては……これが、生まれて初めての『完全な失敗』なのですわ」
彼女は頭を垂れ、その声は夜の闇に溶けてしまいそうなほどに小さくなっていった。
「あらゆる手段を試しました。人々に説明し、反論し、主人に直接語っていただき、そのための計画書まで作成した。それなのに、何一つとして上手くいかない。彼らの信仰は、私たちの言葉を栄養にして、どんどん巨大化していく……」
主人は、途中で言葉を挟むことなく、彼女の言葉をただ静かに聴いていた。いつでも、どんな時でも、主人はそうだった。
「私は……」
セリアの唇から、意図しない告白が零れ落ちた。
「私はもう、どうすればいいのか分からなくなってしまいましたわ」
言ってしまってから、セリアは苦い笑みを浮かべた。
優秀なる助手として、自分は常に最適解を持ち合わせているべきだった。しかし今夜、彼女の引き出しの中には、乾いた風が吹き抜けるだけで、答えは一つも残されていなかった。
主人は、空になった器を机に置いた。
「セリア」
「はい……?」
「君はよくやっている。十分に働いた」
セリアの身体が、指先まで完全に凍りついた。
それは、どこまでも平坦で、感情の起伏のない機械的な言葉だった。しかし、なぜだか分からないが、彼女の胸の奥がひどく締め付けられるように痛んだ。
「私は……」
彼女は再び顔を伏せた。
「……成果を出せませんでしたわ」
「そうだね」
主人は事実をそのまま肯定した。そこに慰めの意図はない。
「だが、君は行動を継続している。それは成果の有無とは異なる評価軸だ」
セリアは、きゅっと唇を噛み締めた。
主人はいつもこうだ。結果の良し悪しだけで人を裁かない。そのプロセスにおける行動の有無だけを純粋に観察している。
しかし――だからこそ、セリアの胸を突く罪悪感は、より一層激しさを増していくのだった。
自分がもっと優秀であれば。もっと知恵が回る助手であれば。主人は今頃、こんな寂れた世界の辺境に留まることなく、本来あるべき高位の領域へと帰還できていたはずなのだ。
ぽつり、と。
机の上に広がった羊皮紙に、小さな水滴が落ちて滲みを作った。
続いて、もう一滴。
セリアは慌てて、衣服の袖で目元を乱暴に拭った。
「……申し訳ありません。私、どうかしていますわね。いつもなら、このような無様な姿はお見せしないのに」
主人はその様子をしばらく観察していたが、やがて静かに告げた。
「疲労が蓄積しているなら、まずは休養を取りなさい。思考の効率が低下している」
セリアは激しく首を横に振った。
「休めませんわ」
「なぜ」
「主人がまだ、この世界にいらっしゃるからですわ」
その言葉には、一ミリの迷いも含まれていなかった。
主人は沈黙した。
セリアが口にしたその言葉が、純然たる本心であることを主人は理解していた。セリアがこれほどまでにすり減りながら動き続けているのは、自分自身のためではない。ただ一点、主人を元の場所へと連れて帰る、その目的のためだけに、彼女の全存在が駆動しているのだ。
主人は小さく、息ともつかない溜息を漏らした。
「ならば――明日、また別の論理パターンを構築しよう」
セリアは、弾かれたように顔を上げた。
「主人……」
「何かな」
「……私に、失望なさらなかったのですか?」
「失望?」
「はい。私が何度も、失敗し続けているのに」
主人は不可解そうに小首を傾げた。
「私は君に対して、今日中に成功せよという命令を出した覚えはないよ」
セリアは、次の言葉を失った。主人は淡々と続けた。
「明日という未来は、まだ確定していない。したがって、現時点で観測を打ち切る――つまり、諦める必要性は論理的に存在しない」
部屋に、再び静かな夜の静寂が戻ってきた。
セリアは、すっかり冷めてしまったお茶の器を見つめていた。
そして、緩やかに一つの真実に気づきつつあった。
彼女を絶望の淵へと追いやっていたのは、重なる失敗そのものではなかった。主人にとっては問題ですらない事象に対して、自分一人だけが孤独に、世界の狂気と戦い続けているという、その圧倒的な孤立感だったのだ。
彼女は目元に残る水分を完全に拭い去ると、深く、大きく息を吸い込んだ。
「――はい、主人」
彼女の声に、わずかながらも張りが戻る。
「……明日、もう一度だけ、新しい方法を試してみますわ」
主人は満足したように短く頷いた。
しかし――セリアは、自らの魂の奥底で、もう一つの冷徹な現実を自覚していた。
彼女の戦う意志の炎は、まだ消えてはいない。
しかし、その炎を支える『いつか帰れる』という希望の土台は、今夜の失敗を経て、目に見えないほどの細かな亀裂を、確実にその表面へと刻み込み始めていたのだった。




