第108話 満場の拍手
『万年豊作教会』の聖堂前広場に降りた静寂は、わずか数秒しか持たない。
マコトが放った、これ以上ないほど冷徹で明快な「私は確かに創造神であって、豊作の神ではない」という拒絶の宣言。それは人々の脳を麻痺させ、広場にはさざ波のような囁き声が広がり始めていた。
しかし、狼狽している者は誰一人としていない。
むしろ、集まった数万の群衆は、その崇高なる否定の裏に隠された、さらに深遠な『教え』を咀嚼しようと、一様に真剣な面持ちで思考の海へ沈んでいた。
演台の脇に立ち、彼らの表情を一人ずつ見回していたセリアは、自身の心臓が不吉なリズムで再び速度を上げるのを感じていた。
彼女はこの表情を嫌というほど知っている。
人間の歪んだ認知システムが、全く新しい天文学的な規模の勘違いを生み出す直前に、必ず見せる特有の兆候だ。
列の先頭にいたリナが、祈るように両手を胸の前で合わせ、一歩前へ出た。その瞳は、溢れんばかりの崇拝の光で潤んでいる。
「――マコト様」
「ん? 何かな」
「不敬を承知で、もう一度だけお聞きしてもよろしいでしょうか。なぜあなた様は、それほどまでに『万年豊作の神』という名で呼ばれることを拒まれるのですか?」
マコトは、人間の言語構造における当然の定義として、迷うことなく答えた。
「それは、事実と異なるからだね。もし誰かが君のことを全く違う名前で呼び続けていたら、それを正しい識別名へと修正するのは、論理的な行為だろう?」
その回答は、どこまでもシンプルだった。
比喩もなく、裏もなく、ただの言語的な整合性を語っただけだ。
しかし、その剥き出しの誠実さが、信徒たちの歪んだ脳内フィルターを通過した瞬間、全く異なる聖なる意味合いへと変貌を遂げていった。
重戦士のレオンが、深く感じ入ったように頭を垂れた。
「そうか……そういうことだったのか」
大粒の涙を流しながら、男は太い拳を震わせた。
「ボスが修正しようとしていたのは、ご自身の肩書きじゃねえ。俺たちの『歪んだ認識』そのものだったんだ」
広場の最前列で『芋の聖典』の編纂を行っていた記録係のブルーノが、狂ったように羽ペンを走らせ始めた。
「――『呼称が誤っているならば、直ちに正せ』。なんと恐ろしい言葉だ。これは、人間の社会的な欺瞞に対する、神からの痛烈な一撃だ!」
隣にいたフィナも、何度も激しく首を縦に振りながら、恍惚とした表情で呟いた。
「ええ、その通りですわ。自分の存在を他人に定義させてはならない。私たちは、マコト様が示してくださった『己の真実』をそのまま生きなければならないのですわね!」
同じく記録係のジョルトが、涙で目を血走らせながらパピルスに文字列を刻み込んでいく。
「――『自分のものでない名で、誰かを呼ぶことの不敬を知れ』。ああ、これは教会の戒律の第一項に加えるべき一節だ!」
セリアは、全身の血の気が一気に引くのを感じて、慌てて両手を振り回した。
「ち、違いますわ! あなた方、完全に主客が転倒していますわよ! ボスはただ、自分の名前が間違っているから『直してほしい』と、文字通りの意味で言っているだけですわ!」
ブルーノが、驚嘆の眼差しをセリアへと向けた。
「おお……さすがは司祭様。マコト様の深遠な御託宣を、これほどまでに分かりやすい日常の言葉に噛み砕いて解説してくださるとは! まさに神の代弁者だ!」
「だから違いますと言っているでしょうが!」
セリアは発狂寸前の絶叫をあげ、すがるようにマコトを振り返った。
「ボス! お願いですから、もう一度だけ説明してください! この人たちの脳内バグが限界突破して、とんでもない教義が爆誕していますわ!」
マコトは小さく頷き、再び群衆へと向き直った。
「私は、言葉の定義以上の裏の意味など一切含めていないよ。私が違うと言ったときは、単に確率論的にも事実関係としても『違う』という意味だ。それ以上の思想的な修辞は存在しない」
広場に、再び水を打ったような静寂が戻ってきた。
セリアは息を止め、祈るように聴衆を見つめた。
主語の否定。修辞の否定。これ以上ないほどに論理的な防壁を張った。今度こそ、認知の隙間などどこにもないはずだった。
しかし、最前列にいた老農夫が、ぽろぽろと大粒の涙を流しながらゆっくりと顔を上げた。
「マコト様……。あなた様は、私たちが過剰な意味を求め、言葉の表面だけで踊ることをも、優しく戒めてくださるのですね。常に飾らない『真実』へと立ち返れ、と……」
その言葉を合図にするかのように、数万の群衆が一斉に深く頷き始めた。
「そうだ、その通りだ!」
「マコト様は決して遠回しな言い方をされない。どこまでも真っ直ぐで、正直であらせられる。これこそが、私たちが目指すべき真の信仰の姿だ!」
セリアは、完全に思考が停止し、虚ろな目で群衆を見つめるしかなかった。
彼らは、確かに何かを深く理解していた。
しかし、彼らが理解したのは、マコトの放った「言葉の内容」ではない。マコトという存在の「どこまでも揺るぎない誠実なキャラクター」そのものだったのだ。そして、その不器用なまでの実直さに触れれば触れるほど、彼らの中の『この御方は本物の神である』という確信は、何百倍もの質量を持って強固にシステム化されていく。
リナは、胸の『芋の聖典』をそっと閉じると、最高の敬意を込めて演台の主に深く一礼した。
「ありがとうございます、マコト様。本日もまた、大いなる気付きをいただきました」
「ん? 気付き、かい? 私はただの事実関係の確認しか行っていないけれど」
「ええ。真理には、余計な飾りなど必要ないのだと、そのお姿をもって教えてくださったのですね」
マコトは不思議そうに小首を傾げた。
彼は何かを教えたつもりなど微塵もなかった。いつものように、ただ質問に対して最適なデータを出力しただけだ。その動機には、宗教的な意図など存在しない。
その時、広場の片隅から、一人の農民が静かに拍手を始めた。
パチ、パチ、と、ゆっくりとした一つの音。
それに引きずられるように、隣の者が手を合わせ、次の列が続き、やがてそれは広場全体を震わせる、地鳴りのような大喝采へと膨れ上がっていった。
前日のそれを遥かに凌駕する、嵐のような満場の拍手。
幼い子供たちは満面の笑みで手を叩き、年老いた農民たちは涙を流しながら頭を垂れている。記録係のブルーノたちは、立ち上がって大喝采を送りながらも、その奇跡的な一瞬を一言も聞き漏らすまいと狂ったようにペンを走らせ続けていた。
セリアは、その圧倒的な熱狂の中心で、幽霊のようにただ立ち尽くしていた。
彼女はもう、その拍手を止めようとはしなかった。これ以上、何を説明しても無駄であると、魂の根底で理解してしまったからだ。
マコトは、歓喜に沸く群衆を観察しながら、困惑したように助手を振り返った。
「セリア。なぜ彼らはこれほどまでに熱狂的に拍手をしているんだい? 私の出力したデータには、エンターテインメント的な要素は含まれていなかったはずだが」
セリアは力なく、しかしどこまでも美しい諦念の笑みを浮かべた。
「……それは、ボスが」
「ん?」
「……いつだって、本当のことしか仰らないからですわ」
マコトは深く得心したように頷いた。
「なるほど。真実を出力するのは当たり前のことだが、人間に喜んでもらえたのなら、それはそれで論理的な成果と言えるね」
「ええ、そうですわね、ボス……。あなたにとっては、当たり前のことですものね……」
聖堂前広場を揺るがす満場の拍手は、その後も長い間、ルナ村の空へと響き渡り続けていた。
集まった誰もが、信じて疑っていなかった。
自分たちが今、至高の神による最も純粋な教えに立ち会っているのだ、と。
そして、彼らが熱狂的な拍手を一回送るごとに、セリアが血のにじむ思いで書き上げた『教会解体計画』が、永遠に不可能な絶対的妄想へと変わっていくという事実に、気づく者はまだ誰一人としていなかった。




