第106話 神の演説
その夜、セリアはすぐに新しい計画書を作成することはしなかった。
村長の屋敷の食堂で、彼女はただ一人、静かに椅子に座り続けていた。目の前の机の上には、二枚の紙が虚しく並べられている。
第一の計画。失敗。
第二の計画。失敗。
どちらも完全に同じ結果に終わっていた。
ボスが言葉を発すれば発するほど、人々の中の『万年豊作教会』に対する信仰心は、狂気的な規模へと肥大化していく。セリアは二枚の紙をじっと見つめたのち、それをゆっくりと折り畳んだ。
通常の対話が通じないのなら、一対一の個別の説明も無意味であるならば。
必要なのは、もっと大きな、決定的な何かだ。
演説。
それは人々を導くための教義の布教ではなく、すべての誤解を一度に、根底から叩き潰すための事実の告白である。
「ボス」
長椅子で熱心に本をめくっていたマコトが、静かに顔を上げた。
「ん?」
「もう一つだけ、重大なお願いがあります」
「いいよ。何かな」
「今回は……いつもより、もっと長く、詳細に話していただきたいのです」
マコトは少し不思議そうに眉を寄せた。
「長く、詳細に、かい?」
「はい。全ての事実を、最初から最後まで、一言も省略せずに話してください。人間の拙い脳が勝手に要約してバグを起こさないよう、あなたの生い立ちから、なぜこの世界にいるのかという経緯まで、その全貌をありのままに提示するのです」
マコトはしばし思考を巡らせた。
「では、具体的にどのような内容を出力すればいいのだろう」
「真実です」
セリアは断固たる口調で言い放った。
「その全てを。ボスの本来の識別名から、この世界に転生事故で堕とされた理由にいたるまで、客観的な事実の年表をそのまま読み上げてください」
マコトは小さく頷いた。
「簡単なことだね」
セリアの唇に、かすかな希望の笑みが浮かんだ。
世界の構造そのものを、これまでの数千年の歴史の裏側にある真実をそのまま一気に開示すれば、どれほど認知の歪んだ人間であっても、それを単なる『麦の神様の謙虚な比喩』として処理することは不可能なはずだ。これこそが、最後の切り札だった。
翌朝、『万年豊作教会』の聖堂前広場は、前日を遥かに凌駕する人間たちの海と化していた。
広場の中央には、即席で作られた簡素な木製の演台が据えられている。モレン村長は、地平線の彼方から今もなお途切れずに続く巡礼者の列を見つめ、驚愕の声を漏らした。
「……昨日よりも、さらに人が増えておるな」
重戦士のレオンも、緊張した面持ちで太い腕を組み、深く頷いた。
「ああ。なんでも、今日はボスがご自身の『歩み』について直接お話ししてくださるって噂が、一晩で隣の領地まで広まったらしいからな。みんな、一言も聞き漏らすまいと必死だ」
リナは、胸の前に大切そうに抱えた『芋の聖典』の端を静かに整えていた。彼女の瞳には、純粋な期待と敬虔な光が満ちている。
(これまで、マコト様は常に短い一言でしか私たちに道を示してくださいませんでした。ですが今日、ついにその大いなる教えの全貌が明かされるのですね……!)
演台の脇に立つセリアは、自身の胸の鼓動が不吉なほど速くなっているのを感じていた。
これが、本当に最後の機会だ。もし今回の演説すらも彼らの狂信的なフィルターによって歪められてしまえば、彼女にはもう、この暴走を止める手段が残されていない。
「ボス」
「ん?」
「お願いしますわ。全てをありのままに」
「分かっているよ」
マコトは淀みのない足取りで演台へと登った。
彼は眼下に広がる、数千、数万の人間たちの波を静かに見渡した。その中には、ルナ村の住民ではない、完全に未知のバイタルデータを持つ者たちが大半を占めている。マコトは深く息を吸い込み、大気に自身の音波を正確に同調させながら、口を開いた。
「まず、自己紹介をしよう。私の識別名はマコト。かつて、ある空間領域において世界のすべて、および物理法則の初期設定を構築していた創造神だ」
その瞬間、広場の最前列に陣取っていた教会の編纂係たちの羽ペンが一斉に動き出した。彼らは息を呑み、頭を垂れながら、生きた神の最初の一語をパピルスへと刻み込んでいく。マコトは淡々と言葉を続けた。
「私は天体の運行システム、および恒星の核融合機序を設計し、大洋と、そこから派生する全生命体の基礎構造を定義した。それが私の本来の業務だ」
遮る者は誰もいなかった。数万の群衆は、まるでおのれの魂の根源に触れるような厳かさをもって、その静かな声に耳を傾けている。
「私が現在、この座標に存在しているのは、純粋な転生処理の不具合――すなわち事故によるものだ。本来であれば、私がこの次元に干渉する予定は存在しなかったが、処理のバグによって強制的にこの肉体へと格納されることになった」
マコトは一度言葉を切り、演台の脇で青ざめている助手に視線を向けた。
「その際、私の専属助手であるセリアも、同じエラーによってこの世界へ同行することになった」
セリアは、自身の責任の重さに胸を締め付けられながらも、事実を肯定するために小さく頷いた。
「……はい。それは事実ですわ」
マコトは再び、群衆へと視線を戻した。
「そして、現在の最重要事項を告げる。この肉体に移行した際、私はかつて保持していた神権のすべてを喪失した。現在の私は、奇跡を起こすエネルギーを持たない、完全に無力な人間だ。それゆえに、自力で本来の領域へ帰還するための座標演算を行うこともできない。以上が、私がここにいる理由のすべてだ」
広場に、耳が痛くなるほどの静寂が満ちていった。
マコトは、自身の説明に論理的な欠陥がないことを確認し、静かに聴衆の反応を待った。主語は明確。経緯は正確。否定の定義もこれ以上ないほど完全だ。
しかし、誰も質問のために手を挙げる者はいない。
代わりに聞こえてきたのは、最前列から響く、押し殺したような小さな、しかし深い嗚咽の音だった。
リナはぽろぽろと大粒の涙を流し、その涙は胸の『芋の聖典』の表紙を濡らしていた。
「なんと……なんと過酷な運命を、お一人で背負われていたのですか……」
重戦士のレオンも、太い拳を血がにじむほどきつく握り締め、低く唸った。
「ボスは……かつての世界を統べるほどの偉大な御力を、すべて失ってしまわれたというのか。それなのに……それなのに俺たちのような無知な人間のために、文句一つ言わずに土を耕し、知恵を授け続けてくださっていたのか……!」
周囲の農民たちも、次々とボロ切れで目元を拭い始めた。
「あのお姿は、神としての威光を失ったからではない。俺たちの罪を代わりに背負い、あえて『無力な人間』として、この苦難に満ちた地上で一緒に生きてくださるためだったんだ……!」
「おいたわしや、マコト様……! そんな重い秘密を、これまで誰にも言わずに、たった一人で耐えておられたなんて!」
セリアは、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
違う。
何一つとして、彼らの受け止め方は合っていない。
ボスはただの『事故の報告書』を読み上げただけだ。そこに情緒的な苦悩も、自己犠牲の精神も、人間を救済するための大義名分など一ミリも含まれていない。しかし、その「あまりにも生々しい全知全能からの転落」という事実が、狂信者たちの脳内で『全人類の苦難を背負って降臨した、慈悲深き現人神の受難劇』として完璧に昇華されてしまっていた。
マコトは、涙を流す群衆のバイタルデータを観察し、困惑したように小首を傾げた。
「なぜ泣いているんだい? これはただの事後報告であり、悲嘆に暮れるべき要素は含まれていないはずだが」
リナは涙に濡れた顔を上げ、至高の敬意に満ちた歪んだ微笑みをマコトへと向けた。
「マコト様……。ようやく、あなたがご自身の『痛み』を私たちに開示してくださった。それだけで、私たちは救われるのです」
「痛み? 私は現在、神経系に一切の異常を検知していないよ」
「ええ、分かっております。そうやって、どこまでも『これはただの事故だ』と仰ることで、私たちに余計な罪悪感を抱かせまいとしてくださるのですね。なんと……なんと底知れぬ慈愛の深さでしょう!」
マコトはしばらくその言葉の論理構造を解析しようとしたが、やがて諦めたように首を振った。
「私は罪悪感を操作する意図など持っていない。ただの事実だ」
その言葉が放たれた瞬間、広場全体の嗚咽は、地鳴りのような大号泣へと変わった。
「ああ……! 神はすべてを許してくださった!」
「ご自身を陥れた過酷な宿命すらも、ただの『事故』として受け入れ、私たちを愛してくださるというのか!」
「万年豊作の主よ……! 俺たちは一生、あなたについていきますだ!」
セリアは、そっと両手で自身の顔を覆い隠した。
ボスの完璧な演説は、終わった。
そして、彼女が『翻訳』のための一言を発するよりも早く、世界はその狂信のシステムを完全に確定させていた。
第三の計画、開始と同時に、完全なる失敗。
セリアの指の隙間から、ルナ村の青空が虚しく覗いていた。その耳には、今や神の受難を称える、未曾有の宗教的熱狂の大合唱が響き渡り始めていた。




