第105話 再びの失敗
その朝、セリアはマコトの斜め後方数歩の位置に、毅然とした態度で直立していた。
二人が立っているのは、『万年豊作教会』の広々とした聖堂前広場である。まだ太陽が東の地平線から顔を出したばかりの時刻だというのに、広場にはすでにおびただしい数の人々が詰めかけ、長蛇の列を作っていた。
作物の生育について教えを乞おうとする農民。感謝の印として、朝採れの野菜を抱えてきた者。あるいはただ、生きた神の姿を一目拝もうと遠方からやってきた巡礼者。
セリアは細い胸に深く息を吸い込み、己の内に眠る助手としてのプライドを呼び覚ました。
(今日が第二の試み。ボスはいつも通りに答え、私はその直後に、彼らのバグだらけの脳が都合の良い妄想を始める前に『真実の定義』を叩き込むのよ……!)
「――あの、聖下」
列の先頭にいた一人のうだつの上がらない農民が、恐る恐る声をかけてきた。ここで言う『聖下』とは、昨日の大誤解によって教会の最高指導者に祭り上げられてしまったセリアのことである。
セリアは事務的な微笑を浮かべて頷いた。
「はい、何でしょうか」
「うちの畑の麦なんですが、まだ収穫の時期でもないのに、どうも葉の先が黄色く萎びてきまして。一体どうすればよろしいんでしょうか」
セリアが口を開くより早く、隣に立つマコトがハーブティーの入った木コップを片手に、淡々と答えを出力した。
「根を見なさい」
農民は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で瞬きをした。
「根、ですか?」
「そうだ。植物の地上部における異変は、大抵の場合、地下の根系における環境の悪化が原因だ。もし根が黒く腐っているなら、水分の供給過多による根腐れが疑われる。逆に根が白く健全であるなら、葉に寄生する微小な害虫の存在を疑うべきだ。原因に応じた対処をすれば、問題は解決する」
農民は、まるで天啓を受けたかのように何度も激しく首を縦に振った。
「なるほど……! 根を見る、ですか! ありがとうございます、ボス!」
農民が満足げに列を離れようとしたその瞬間、セリアが電光石火の速さでその前に立ちはだかった。
「お待ちください!」
農民はぎょっとして足を止めた。セリアは一切の感情を排したビジネススマイルを崩さない。
「今のボスの発言は、純粋な『農業工学における基礎的なトラブルシューティング』です。そこには宗教的な教えや、精神的なドグマなど一ミリも含まれていません。ただの園芸知識です。分かりましたね?」
農民は、セリアの真剣な眼差しに気圧されながらも、深く感銘を受けたように微笑んだ。
「ええ、分かっておりますとも、聖下」
セリアは、一瞬だけ胸をなでおろした。伝わった、と。
しかし、農民はすぐさま、陶酔しきった目で天を仰いだ。
「これこそが、ボスの『大いなる教え』そのものですな」
「……はい?」
「ボスはいつも、私たちに本質を教えてくださる。『物事を表面だけで判断するな。常にその根底にある原因を見つめよ』と……。ああ、なんと深い人生の真理だ。ただの麦の話に見せかけて、私たちの生き方そのものを正してくださっている。さすがはボスだ……!」
「違いますわ! あれは本当にただの、文字通りの『土の中の根っこ』の話をして――」
「いやはや、胸に沁みました。失礼します!」
農民は拝むように手を合わせると、足早に去っていった。セリアはその場に釘付けになり、遠ざかる背中を呆然と見つめるしかなかった。
(失敗だわ……。まだ最初の一人目なのに、完璧に失敗したわ……!)
セリアが絶望のあまり眩暈を覚える暇もなく、今度は幼い子供を抱えた若い母親がマコトの前に進み出た。
「あの、ボス……。うちの子、最近どうしても野菜を食べてくれなくて。いくら言い聞かせても泣いて嫌がるんです。どうすればいいんでしょうか」
マコトは、子供の消化器官の発達度合いと、味覚の受容体の性質について脳内で数秒の演算を行い、至極当然の解決策を述べた。
「無理に食べさせてはいけないよ」
「えっ……そうなんですか?」
「拒絶している物質を強引に摂取させようとすれば、脳がそれを『毒物』と誤認し、将来的に永続的な嫌悪感を抱く原因になる。まずは細かく刻んで少量を調理し、時間をかけて徐々に味覚の慣らし運転を行うのが論理的な手順だ。焦る必要はない」
母親は、目の前の霧が晴れたような表情で深く一礼した。
「ありがとうございます、ボス。気持ちが楽になりました」
彼女が歩き出そうとした瞬間、セリアが再びその行く手を遮った。
「奥様、少々よろしいかしら」
「あら、聖下。どうされました?」
「今のは、乳幼児における『味覚の学習プロセスに関する一般的なアドバイス』です。決して、人間の精神修養や、怠惰を肯定する聖なる啓示ではありません。よろしいですね?」
母親は、セリアの必死な形相を見て、優しく微笑んだ。
「ええ、よく理解しておりますわ、聖下」
セリアは、今度こそ救われたと思った。
だが、母親は胸の手をきつく握り締め、熱い吐息を漏らした。
「だからこそ、私はボスの偉大さに平伏さざるを得ないのです」
「……なぜ、そうなるのですの?」
「ボスは、私たち人間の脆さを全て知っておられるのです。『無理をしてはならない。魂の成長には段階があり、時間をかけて少しずつ育むものだ』と、あの小さなお野菜を通じて教えてくださったのよ。ボスは決して私たちを責めず、寄り添ってくださる……。ああ、何という慈悲の深さでしょう」
セリアは、ゆっくりと両目を閉じた。
まただ。
完璧に、洗練された形で、別の崇高な意味へと変換されてしまった。ボスの放つ「ただの事実」は、人間の脳内に組み込まれた『神格化のバグ』を刺激し、あらゆる日常の会話を聖典の一節へと変貌させていく。
マコトは、隣で彫像のように硬直しているセリアの様子に、ふと気づいたようだった。
「セリア。君のバイタルデータに、著しい疲労の兆候が見られる。精神的な負荷が許容量を超えているのではないかい?」
セリアは目を血走らせたまま、機械的な声で答えた。
「……はい、ボス。私の精神は、今まさに限界を迎えておりますわ」
「ならば、速やかに業務を停止し、肉体および精神の休養を優先すべきだ」
「いいえ……! 私は、説明しなければならないのです……。この世界の、バグだらけの人間どもに……!」
セリアの必死の抵抗は、昼近くになっても続けられた。
そこへ、一人の少年がドタドタと足音を立てて走ってきた。
「ボス! ボス!」
「ん? どうしたんだい?」
「父ちゃんがさ、『男なら死ぬ気で働け!』って毎日うるさいんだ。でも俺、夕方になるとすっげえ疲れちまって、もう一歩も動けなくなるんだよ。俺って、ダメな奴なのかな」
マコトは、少年の未発達な骨格と、日中の肉体労働による乳酸の蓄積量を考慮し、至極一般的な生物学的見解を述べた。
「疲労を感じるのは、生物の自己防衛機能として完全に正常な反応だよ」
「本当?」
「そうだ。肉体が休息を求めているというシグナルだからね。疲れたら、まず休むこと。そして肉体が回復したのちに、再び活動を開始すればいい。限界を超えて細胞を破壊し続ける行為は、ただの非論理的な自傷行為だ。無理をする必要はどこにもない」
少年は、ぱあっと顔を輝かせた。
「そっか! 休んでいいんだな! ありがとな、ボス!」
少年は嬉しそうに父親の待つ畑へと走り去っていった。
セリアは最後の力を振り絞り、その少年の後を追った。
「ぼ、坊や! ちょっと待ちおきなさい!」
足を止めた少年に、セリアは膝をついて視線を合わせた。
「今のボスの言葉は、ただの『哺乳類における疲労物質の代謝に関する医学的見解』よ! 決して、労働をサボるための神聖な免罪符ではないの! ただの休憩のすすめよ、分かった!?」
少年は、セリアの必死な態度に少し気圧されながらも、満面の笑みで頷いた。
「うん! 分かってるよ、聖下のお姉ちゃん!」
セリアは、三度目の正直で今度こそ安堵の息を漏らしようとした。
しかし、少年は澄んだ瞳を輝かせながら、無邪気に言い放った。
「ボスって本当にすっげえよな!『必死に働くことだけが正しいんじゃない。自分を大切にすることも、神様がくれた大事な生き方だ』って教えてくれたんだ。父ちゃんにも教えてやるんだ!『細胞の破壊はダメだぞ』って!」
少年は今度こそ、風のように走り去っていった。
セリアはもう、追いかける元気がなかった。
彼女は広場の土の上に、ぽつんと立ち尽くした。
説明すればするほど。
彼女が「これはただの事実だ」と注釈を入れれば入れるほど、人間たちはそれを『難解な神の言葉を分かりやすく噛み砕いてくれる、偉大なる聖下の解説』として受け止め、彼らの信仰に深みと肉付けを与えていくのだった。
ボスは最初から、誰かを導くための教えなど一言も発していない。ただのデータの出力をしているだけだ。それなのに、世界はそれを許さない。
マコトが、疲れ果てた様子の助手を静かに見つめた。
「どうだったかい、セリア。君の『翻訳』の成果は」
セリアは、幽霊のような力ない笑みを浮かべた。
「……再びの、失敗ですわ、ボス」
「そうか。認識の修正というのは、想像以上に困難な処理のようだね」
「困難なんてものではありませんわ……」
マコトは小さく頷き、なおも教えを乞うために行列を作っている信徒たちへと視線を戻した。
彼にとって、その日は昨日や一頃と何ら変わらぬ、平凡な日常の一コマに過ぎなかった。人間が問い、既知のデータベースから最適な回答を出力し、問題が解決する。その繰り返しだ。
しかし、その隣で、セリアは再び真っ黒に塗り潰された『計画書』の頁の最下部に、震える手でこう書き加えるしかなかった。
『再びの失敗。追記:私が解説を行う行為は、信徒たちによって「聖下による公式な解釈」として受容されており、かえって教義のシステム化を強固にする結果を招いている。第二の計画、完全敗北』




