第104話 第二の計画
その夜、村長の屋敷の食堂は、重苦しい沈黙の沼に沈んでいた。
前夜とは異なり、誰一人として最初に口を開こうとする者がいない。ただ、部屋の隅に置かれた古い柱時計の秒針の音だけが、不気味なほど規則正しく鳴り響いていた。
長机の上には、昨夜セリアが血のにじむような思いで書き上げた『計画書』が、虚しく広げられたままだ。その第一頁の右上には、今や黒々とした太い筆致で、ただ一言、こう書き加えられていた。
『失敗』
セリア自身が、自嘲の笑みを浮かべながら書き殴った文字だった。
彼女はしばらくその文字を凝視したのち、大きく肩を落として深い溜め息を吐いた。
「……本当に、意味が分かりませんわ」
絞り出すようなその呟きに、モレン村長が苦渋に満ちた笑みを浮かべて応じた。
「正直に申し上げると、わしにも何が起きたのか、さっぱり分からんのだ……」
青年のハンスも、完全に同意するように激しく首を縦に振った。
「そうだよ。ボスははっきりと『自分は万年豊作の神じゃない』って言ったんだ。セリアだって、周りの連中にそう説明した。それなのに、なんであいつら、昨日より百倍も目を輝かせて『やっぱりボスは本物だ!』なんて確信しちまってるんだ?」
その問いに答えられる者は、この部屋には誰もいなかった。
そんな中、一人だけ完全にいつも通りの温度を保っている男がいた。
マコトは、村長が淹れてくれた温かいハーブティーを静かに口に含み、喉を鳴らした。それから、どこまでも穏やかな表情で顔を上げた。
「おそらく」
その一言で、部屋にいた全員の視線が、一斉にマコトへと集中した。
「……彼らは、聞いていなかったのではないかな」
セリアは力なく首を振った。
「いいえ、ボス。彼らは間違いなく、あなたの言葉を耳で聞いていましたわ」
「では、理解されなかったということかい?」
「いいえ。彼らは100パーセント、信じて受け入れています」
「それは素晴らしいことじゃないか」
「全然素晴らしくありませんわ!」
セリアは思わず、自身の両手で額をきつく押さえた。
「彼らは受け入れているんです。ただし、私たちが想像もつかないような、全く歪んだ意味合いとして!」
マコトは、人間の認知構造における「歪み」の複雑さについて、しばし脳内で演算を行うかのように沈黙した。やがて、小さく首を傾げて頷いた。
「なるほど。それは確かに、一筋縄ではいかない問題だね」
セリアは引きつった笑みを浮かべた。
万物を創造し、世界のすべての法則を定義したはずのボスが「一筋縄ではいかない」と認めるほどのバグ。それが、この世界の人間たちの狂信的な思考回路だった。
セリアは覚悟を決め、新しい白紙を一枚、机の真ん中へと引き寄せた。
そして、その最上部に力強く『2』の数字を刻み込む。
「第二の計画、です」
ハンスが横から、その白紙を覗き込んできた。
「おいおい、セリア。今度は一体どんなウルトラCを繰り出すつもりなんだ?」
セリアは羽ペンの先端で、机をコン、コンと一定の律動で叩き続けた。
直接的な言葉による説得が、彼らの狂信的なフィルターによってすべて「聖なる謙虚さ」に変換されてしまうのであれば、問題は言葉そのものにはない。問題は、彼らの受容体制、すなわち――。
「彼らの、聞き方そのものにありますわ」
「聞き方?」
モレン村長が怪訝そうに尋ねた。
「そうです。彼らはボスの口から出る言葉を、最初から『万年豊作の神のありがたい御託宣』として捉えています。だから、どんな否定の言葉も、高尚な比喩として処理されてしまう。ならば、その原因を根本から断ち切るしかありません」
「具体的にはどうするんだよ」
「ボスの『偶像としての威厳』を消滅させます」
部屋が、ふたたび静まり返った。マコトすらも、興味深そうにセリアへと視線を向けた。
「威厳、かい?」
「はい。これまで、村の誰もがボスに教えを乞い、ボスはそれに完璧に答えてきました。だからこそ、あなたの言葉は神聖視されているのです。ならば、明日からは――」
セリアは一度言葉を切り、冷酷な決意を込めて告げた。
「ボスは、誰からの質問にも、一切答えてはなりません」
ハンスがぎょっとしたように目を剥いた。
「ええっ!? 答えないって、無視するのか?」
モレン村長も狼狽を隠せない様子で瞬きを繰り返した。
「無視、ですか……。しかし、それは少々、過激が過ぎるのでは」
「過激でも何でもありませんわ。答えがなければ、そこから新しい『教え』や『ドグマ』が生まれる余地もなくなります。沈黙こそが、信仰の拡大を防ぐ最大の防壁です」
部屋に、再び重い静寂が満ちていった。
マコトは、セリアの目をじっと見つめ返していた。その瞳には、批難の気配もなければ、拒絶の色もない。ただ、一つの純粋な疑問だけが浮かんでいた。
「セリア。もし彼らが、作物の育成方法について切実に悩んで、私に問いかけてきたとしても、私は何も言ってはならないのかい?」
セリアの喉が、一瞬で詰まった。
「それは……」
「私の記憶領域には、土壌の成分分析や、最適な灌漑の周期に関する確実なデータが存在する。彼らがそれを必要とし、私がその解決策を知っているというのに、私は口を閉ざしていなければならないのだろうか」
セリアは何も言い返せなかった。
彼女の脳内で、二つの相反する義務が激しく衝突していた。
創造神の助手として、この世界の信仰の暴走を止め、ボスを神界へと還すための座標を守らなければならない。それは絶対に譲れない使命だ。
しかし、数十億年もの間、この主の傍らに仕えてきた彼女は、誰よりもよく知っていた。マコトという存在は、目の前で誰かが真剣に困惑し、助けを求めている時、己が解決策を知っていながらそれを冷酷に突き放すような真似は、構造的に絶対にできないのだ。
「もし私が沈黙を守れば」
マコトは、どこまでも平穏な、しかし逆らえない重みを持った声で続けた。
「彼らの作物は立ち枯れ、冬を越すための食糧が不足し、多くの人間が不利益を被るかもしれない。私が一言、正しい手順を教えさえすれば回避できる不幸を、私はただ見過ごさなければならないのかい?」
食堂は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
ハンスも、モレン村長も、何も言えずに視線を落とした。
誰もが知っていた。マコトの言う通りだ。この主は、決して自分が崇められたいから知識を与えているのではない。ただ、目の前の人間が困っているから、それを助けるために言葉を発しているだけなのだ。その動機には、宗教的な野心など微塵も存在しない。
モレン村長が、しみじみとした様子で深く椅子に背を預けた。
「……考えてみれば、それこそが、わしたちの知るボスのお姿ですな」
ハンスも小さく溜め息を吐き、頭を掻いた。
「ああ。もしボスが、困ってる奴を無視して冷たく黙り込んでるなんて、そんなの、俺たちの知ってるボスじゃないよ」
セリアは、きつく両目を閉じた。
胸の奥が、熱い感情で締め付けられる。
そうなのだ。彼女自身、そんな冷酷なマコトなど見たくはなかった。誰よりもボスのその「不器用なまでの誠実さ」を尊敬しているのは、他でもないセリア自身だった。
セリアは目を開け、羽ペンを握り直した。
白紙の上には、先ほど書き付けたばかりの一文――『ボスは質問に答えてはならない』という文字が踊っている。セリアは、その文字列の上に、ゆっくりと黒い線を引いて塗り潰していった。
自分の都合で、ボスの本質を捻じ曲げるような真似はさせない。それは、彼女の誇りが許さなかった。
セリアは、その一文の真下に、新しい決意を書き込んでいった。
『ボスは、通常通り質問に答えるものとする』
『ただし、その直後に、私がその言葉の真意を完璧に解説(翻訳)する』
彼女はその新しい指針をじっと見つめ、深く頷いた。
「そうですわ……。ボスが黙る必要なんてありません。これからは、私がボスの『翻訳官』になればいいのですわ」
マコトは不思議そうに小首を傾げた。
「翻訳官、かい?」
「はい。ボスが物理法則や農法について語った直後に、私が皆の前で説明するんです。『今の言葉は、ただの学術的な事実であって、神の奇跡ではありません!』と、その場で誤解の芽を摘み取るのですわ」
マコトはしばらくその手法について思考のシミュレーションを行い、やがて満足げに頷いた。
「なるほど。それは私の発言の正確性を担保する上でも、非常に合理的な手段だね。ただ、君の業務量が大幅に増加してしまうことが懸念されるけれど」
セリアは、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「今更、業務量が増えることくらいでへこたれる私ではありませんわ。慣れっこです」
その胸中には、未だにこの第二の計画が本当に成功するのかという、一抹の不安が残っていた。しかし、試せる手段がある限り、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「明日から、徹底的にボスの言葉に張り付きますわよ」
セリアの瞳に、再び不屈の炎が灯った。彼女は、この新しい役割が、さらなる未曾有の誤解を生む引き金になろうとは、この時まだ露ほども思っていなかった。




