第103話 失敗
翌朝、『万年豊作教会』の聖堂前広場は、早朝からおびただしい熱気に包まれていた。
マコト自身が信徒たちの前で直接言葉を述べるという報せは、昨夜のうちに村の隅々まで伝わっていたのだ。その目的を知る者は誰一人としていなかったが、それゆえに人々の好奇心と期待は膨れ上がり、ルナ村の全住民のみならず、近隣の村からやってきた巡礼者までもが広場を埋め尽くしていた。
聖堂の重厚な扉の脇に、セリアは直立していた。
彼女の視線は、せわしなく群衆の波を掃射し続けている。昨日よりも明らかに人の数が増えている。その圧倒的な光景を前に、セリアは細い肩を震わせ、胸の内で祈るように呟いた。
(大丈夫、事前の打ち合わせ通りにいけば、今度こそ終わるはずよ……)
「……ボス」
セリアは隣に立つマコトに、消え入りそうな声で囁いた。
「ん?」
「くれぐれも……明確に、はっきりと告げてくださいね。人間特有の認知の歪みを完全に潰すように、一分の隙もない事実だけを」
「ああ、任せておくれ。私はいつだって、言葉の定義通りにしか話さないからね」
「比喩も、遠回しな表現も一切禁止ですから」
「私はそもそも比喩という高度な言語技術を持ち合わせていないよ。常に剥き出しの事実だけだ」
「……それなら、いいんです。それなら」
セリアは自分に言い聞かせるように深く息を吐いた。
ボスがどこまでも愚直に、ありのままの事実を語る。その圧倒的な誠実さこそが、この暴走する狂信を止める唯一の楔になると、彼女はまだ信じて疑っていなかった。
群衆の前に、薄緑色の聖職衣をまとったリナが一歩踏み出した。彼女は広場を埋め尽くす信徒たちを慈愛に満ちた目で見渡すと、清らかな声を響かせた。
「皆さん、静粛に。本日は……我らが主であるマコト様が、皆さんに直接、大切なお言葉を授けてくださいます」
その瞬間、喧騒に満ちていた広場が、まるで水を打ったように静まり返った。
何千もの熱を帯びた眼差しが、一斉にマコトへと注がれる。マコトは至って平然とした足取りで前へ出た。緊張の気配もなければ、威圧的な威厳もない。彼はただ、いつも通りにそこに立ち、大気に声を乗せるように静かに口を開いた。
「集まってくれてありがとう。今日は、君たちの間に蔓延している一つの重大な誤認――すなわち『勘違い』を完全に修正するために、この場を設けてもらった」
セリアは背中の後ろで、白くなるほど拳をきつく握り締めた。始まった。今度こそ、あの砂上の楼閣が崩れ去る瞬間がやってきたのだ。
「結論から言おう。私は、君たちが崇めているような『万年豊作の神』では断じてない」
広場に、凍りついたような沈黙が広がった。誰も動かず、誰も呼吸すらしていないかのように、マコトの言葉を耳から脳へと流し込んでいく。マコトはそのまま、論理の細部を容赦なく列挙し始めた。
「私は農作物の成長を奇跡によって促す権能など持っていないし、秋の収穫量を保証する契約も結んでいない。私が知っているのは、植物が光合成を行い、土壌の微生物が有機物を分解し、水分が毛細管現象によって根から吸い上げられるという、この世界の基礎的な物理法則の機序だけだ。つまり、私はただの、農業に関する知識を少し持っているだけの無力な存在だ」
群衆の中から、いくつかの深い頷きが返ってきた。
セリアの胸に、確かな手応えが宿る。
(よし……! みんな、真面目に聞き入ってる。言葉の定義がちゃんと伝わってるわ!)
「さらに言えば」
マコトは淡々と、しかし厳格に言葉を重ねた。
「私はこの『万年豊作教会』という組織の設立を許可した覚えはないし、このような立派な聖堂を建てるよう要求したこともない。これらはすべて、君たちが私の意図を無視し、自分たちの都合で勝手に始めたことだ。リナを聖職者に任命した覚えもない」
その言葉を受け、リナは静かに目元を伏せ、深く胸に手を当てた。
「……その通りです」
リナの呟きは、周囲の信徒たちの耳にもはっきりと届いていた。
「マコト様は一度として、ご自身のための奉仕を求めたことはありませんでした。すべては、私たちが押し付けたものだったのです」
「その通りだ」
マコトは小さく頷き、最後の締めくくりに入った。
「したがって、君たちが私を『万年豊作の神』として崇める理由も、大義名分も、根拠もここには一切存在しない。以上だ。これでもう、誤解は完全に解けたね」
マコトは話を打ち切った。彼にとって、これ以上の説明は贅肉でしかなかった。主語も明確であり、否定の定義も完璧。認知の隙など、どこにもないはずだった。
しばしの沈黙ののち、最前列にいた一人の老農夫が、恐る恐る手を挙げた。
「マコト様……お言葉ですが、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ん? いいよ。何かな」
「つまり……私たちは、最初から最後まで、すべて間違っていた、ということでしょうか」
マコトは迷うことなく、至極当然のように即答した。
「そうだね。完全に間違っているよ」
セリアは歓喜のあまり、叫び出したい衝動を必死に抑えた。
(言った! ハッキリ『完全に間違ってる』って言ったわ! これで終わりよ、この悪夢のような勘違いは全部リセットされるのよ!)
しかし、老農夫は落胆するどころか、涙を浮かべながらさらに問いを重ねた。
「では、マコト様。なぜ神でもないはずの御方が、私たちのような無知な農民に対し、あれほど親身になって土の耕し方や堆肥の作り方を、夜を徹して教えてくださったのですか?」
マコトは、人間の心理構造におけるその問いの意図を測りかねながらも、事実をそのまま答えた。
「それは、君たちが私に質問したからだよ。私の記憶領域に存在する既知のデータであれば、求めに応じて出力するのは論理的な行為だからね。そこに特別な理由はない」
老農夫は、その言葉を脳内で反芻し、やがて呆然と頭を垂れた。
「なんと……なんというおいたわしいお言葉だ……」
老人の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。セリアは一瞬で血の気が引くのを感じた。
「え……? ちょっと、おじいさん?」
老農夫は震える声で、周囲の信徒たちに呼びかけるように叫んだ。
「皆の衆、聞いたか……! マコト様は、ご自身が神と呼ばれることすら拒まれているのだ! これほどまでに私たちを助け、豊かな知識を与えてくださっておきながら、全ての栄光を退け、ご自身を『ただの無力な存在』とお呼びになられた! これこそが……これこそが、真の神の『至高の謙虚さ』でなくて何だというのだ!」
その瞬間、広場に座る信徒たちの間に、落雷のような衝撃が走った。
「そうだ……! その通りだ!」
「もしマコト様が、我が物顔で『俺が神だ、崇め奉れ』などと仰る御方であれば、私たちはここまでお慕いしていなかったはずだ!」
「私たちは間違っていた……! 神の御威光を、ただの『麦の豊作』というちっぽけな枠に押し込めようとしていたのだから! マコト様は怒っておられるのではない。私たちの視野の狭さを、優しく戒めてくださっているのだ!」
「不敬であったのは私たちだ! それなのに、マコト様は『質問されたから答えただけだ』と、まるで友人のように接してくださった……! ああ、なんて慈悲深い御方なんだ!」
リナは両手を胸の前で組み、歓喜と感涙に瞳を濡らしながらマコトを仰ぎ見た。
「ようやく、全ての合点がいきました……」
彼女の囁きは、聖なる確信に満ちていた。
「マコト様が『私は万年豊作の神ではない』と仰った真意。それは、ご自身を偶像として崇拝することを禁じるための、崇高な教えだったのです。私たちは形だけの神殿に祈るのではなく、マコト様が示してくださった『実践の教え』そのものを全うしなければならなかったのです……!」
隣にいた重戦士のレオンも、深く感銘を受けたように腕を組み、何度も厳かに頷いていた。
「全くだ。あのお言葉は拒絶じゃない。俺たちに対する、最大の『試練』であり『教え』だ。名声や地位を一切求めない、これこそが本物の信仰のあり方ってわけだな」
セリアは目の前の光景を、ただ呆然と見つめていた。
違う。
何一つとして合っていない。
マコトの放った「100パーセントの真実」は、信徒たちの狂信的なフィルターを通過した結果、より強固で、より洗練された、不可逆的な「大いなる神の沈黙と謙遜」というドグマへと昇華してしまっていた。
マコトは首を少し傾げ、困惑したようにセリアを振り返った。
「セリア。どうやら、彼らの認識の齟齬は私の予想以上に深刻なようだ。全く計算が合わない。修正が反映されていないように見えるのだが」
セリアの唇から、力ない笑いが漏れた。もはや涙すら出なかった。
「ええ、ボス……。齟齬じゃないわ。これ、完全に仕様になっちゃってるのよ……」
群衆の中から、誰からともなく拍手が沸き起こった。
一人が叩き、二人が合わせ、やがてそれは広場全体を揺るがす、嵐のような大喝采へと膨れ上がっていった。人々は涙を流し、互いの肩を抱き合い、マコトの「絶対的な徳」を称える賛美歌を歌い始めた。
セリアは、どこまでも青く澄み渡るルナ村の朝空を仰ぎ見た。
第一段階の作戦。
それは、彼女の人生史上、最も完璧な形で失敗に終わった。そしてその失敗は、皮肉なことに、信徒たちの忠誠心をこれまでの百倍に跳ね上げるという、最悪の果実を実らせていた。




