第101話 解散計画
ルナ村に、しっとりとした夜の帳が下りていた。
普段であれば、とっくに静まり返っているはずの刻限である。しかし、村長の屋敷の窓からは、未だに淡い蝋燭の光が漏れていた。
戸外からは、夏の終わりを告げる虫たちの声が絶え間なく響いてくる。それに混じって、時折、遠くの街灯の下を歩く巡礼者たちの足音が聞こえた。彼らは『万年豊作教会』の聖堂で祈りを捧げ終え、満ち足りた表情で宿へと引き返す途中なのだ。
日に日に活気を帯びていく村。かつての寂れた農村の面影はどこにもない。
だが、その賑わいこそが、セリアの胸を締め付ける最大の原因だった。
木製の粗末な机の前に、セリアは腰を下ろしていた。
目の前には、白々と光る数枚の白紙が広げられている。かれこれ一時間近く、彼女は羽ペンを握ったまま、その余白を睨みつけ続けていた。しかし、インクの滴は先端で乾きかけるばかりで、最初の一文字すら書き出すことができずにいる。
「……ボス」
張り詰めた沈黙を破り、セリアが声をかけた。
傍らの長椅子で、熱心に『現代農法における土壌改良』という実用書をめくっていたマコトが、静かに顔を上げた。その瞳には、かつて数多の銀河を配置していた頃と変わらぬ、絶対的な平穏が宿っている。
「ん?」
「少し、考えていたことがありまして」
「いいよ。何かな」
「ボスから見て……今のこの村における、最大の懸案事項は何だと思いますか?」
マコトは即答しなかった。一度、読んでいる本の頁に栞を挟み、それを丁寧に机の端へと置く。それから、人間という不確定要素の多い存在の営みについて、数秒の演算を行った。
「水だね」
セリアはぱちぱちと瞬きをした。
「……み、水、ですか?」
「北側の灌漑用の水路が、泥の堆積によって少々浅くなっている。もしこのまま秋の降雨が遅れれば、あの一帯の圃場は深刻な水分不足に陥る可能性が高い。早急に浚渫作業の手配をすべきだ」
その指摘は、完全に正しかった。そして、あまりにもこの主らしい回答だった。
マコトはいつだって、現実に存在する具体的な問題だけを見つめている。だが、セリアが求めていたのは、そんな実直な農政の相談ではなかった。
「いえ、農業の話ではないんです」
「おや」
マコトは小さく首を傾げた。
「では、何のことだい?」
「あの、教会のことです」
マコトは再び、思考の海へと沈むような仕草を見せた。しばらくして、彼は全く濁りのない声で答えた。
「彼らはとても善良な人々だよ」
「……へ?」
「勤勉だし、毎朝早くから聖典を熱心に読み合わせている。それに、村の老人たちの農作業を自発的に手伝ってもいるようだ。相互扶助の精神が実実に機能している。組織として、特に問題があるようには見えないけれど」
セリアは思わず、きつく目元を押さえた。
分かってはいた。ボスは最初から、あの『万年豊作教会』という集団を、世界を脅かす邪教の類としては一瞥もしていないのだ。なぜなら彼の視点において、彼らは誰一人として悪意を持っていないからだ。彼らはただ、致命的に、天文学的な規模で、マコトという存在の定義を誤認しているに過ぎない。
しかし、その善意による誤解こそが、最も質が悪いということにボスは気づいていない。
このまま放置していれば、そう遠くない未来、全世界の人間がマコトを『麦の育成を司る小規模な土着神』として確定させてしまうだろう。その認知が歴史として定着してしまえば、彼を本来の創造神の座へと還すための座標演算は、歪められた概念の重みによって永久に不可能となってしまう。
セリアは目の前の白紙に、痛いほどの視線を注いだ。
「……止めなきゃダメなんです」
絞り出すような呟きが、静かな部屋に響く。マコトはそれを聞き逃さなかった。
「何を止めるんだい?」
「教会を、です」
マコトは不思議そうに眉を寄せた。
「どうして? 彼らはあそこで楽しそうにしているよ」
「理由は一つしかありません。ボスは、彼らが崇めているような『万年豊作の神』なんかじゃないからです」
「それはその通りだ。私は農作物の成長を局所的に促す奇跡の権能など持ち合わせていない」
「だったら……あの集団は、存在してはいけないんです。速やかに解散させるべきです」
マコトはすぐには言葉を返さなかった。セリアの言葉に含まれる論理的な整合性と、そこから派生する人間の感情の動きを、静かに天秤にかけているようだった。
「しかし、セリア。もしあの場所を無くしてしまったら、集まっていた人々はどこへ行けばいいのだろう」
「え……」
「彼らはあそこに集まり、文字を学び、明日の天候について語り合い、農具の改良について意見を交わしている。あそこは彼らにとって、生活の基盤となるコミュニティだ。それが突然消滅すれば、多くの者が行く道を失い、困惑することになるのではないかな」
「それは……」
セリアは言葉に詰まった。
マコトは組織を擁護しているのではない。ただそこに集う剥き出しの人間たちの、ささやかな不便を懸念しているだけなのだ。いつだってこの主のまなざしは、大いなる制度ではなく、地を這う個人の営みに向けられる。その絶対的な誠実さが、今は逆に、セリアにとっての障壁となっていた。
セリアは深く、長い溜め息を吐き出した。
「分かっています。ボスの仰ることは、全部正しいです。それでも、解散させなければならないんです」
「なぜだい?」
問われ、セリアはほんの少しの間を置いた。そして、決意を込めて呟いた。
「……あの組織は、最初から最後まで、すべて『勘違い』の上に建っている砂上の楼閣だからです」
マコトは、その言葉の定義を正確に咀嚼し、小さく頷いた。
「なるほど。それもまた、一つの真理だね」
部屋に、再び静寂が戻ってきた。
二人の人間。二つの結論。そのどちらもが、一分の隙もない正論であった。しかし、その正論は、完全に交わらない二つの方向を指し示している。
セリアはついに意を決し、乾きかけていた羽ペンをインク壺へと浸した。
白紙の最上部に、鋭い筆致で最初の文字列が刻まれる。
『万年豊作教会、解体計画書』
そこで一度、セリアの手が止まった。彼女はしばらくその文字を凝視したのち、横線を引いて『教会』という単語を抹消した。そしてその上に、あえて『カルトセクト』と書き加えた。
これを教会と呼んでしまえば、ボスはいつまでも人々のコミュニティとしての利便性を優先してしまうだろう。だが、これを『看過できない有害な勘違い集団』として定義し直せば、論理的な思考を持つボスにも、その危険性がより明確に伝わるはずだ。
「ボス」
「ん?」
「一つ、重大なお願いがあります」
「いいよ。私にできることなら」
「これから私が、彼らの誤解を解くための場を設けます。その時、ボスはただ……集まった皆の前で、一切の加減をせず、ありのままの真実だけを話していただきたいんです」
マコトは微塵の躊躇もなく、穏やかに頷いた。
「お安い御用だ。私はこれまでも、常に真実しか口にしていないからね」
セリアの唇に、かすかな、しかし切実な笑みが浮かんだ。その答えは確信していた。この主は構造的に嘘を吐くことができない。そしてそれこそが、彼女に残された最後の、そこで最強の切り札だった。
ボスがどこまでも誠実に、自分は神ではないと、ただの無力な人間だと説明し続ければ。
自分がそれを補佐し、客観的な事実をもって周囲を説得する緻密な計画を組み立てれば。
きっと、今度こそ。この肥大化し続ける狂気の勘違いを、根底から叩き潰すことができるはずだ。
セリアは再びペンを動かした。もう、その指先に迷いはなかった。
タイトルの真下に、彼女は第一段階の行動指針を書き込んでいく。
『第一項:全信徒を集めた公聴会の開催。ボスの口から、自身が創造神であり、麦の神ではないという事実、および一切の神権を喪失している事実を直接告げさせ、信仰の前提条件を内部から崩壊させる』
セリアはその一文を見つめ、満足げに深く頷いた。
「よし……。ここから全てを終わらせるわ」
彼女は、祈るような歪んだ微笑みを浮かべていた。
その時のセリアは、まだ知る由もなかった。己の手によって書き付けられたその最初の一行こそが、この世界をさらなる未曾有の大混乱へと叩き落とす、破滅へのカウントダウンの始まりであるということを。




