10│今まで当たり前だった時間 -01-
夏休みも終盤に差しかかっていた。
窓の外では蝉が鳴いている。
図書館の奥の席で、二人は魔法紙を広げていた。
レイナード教授から与えられた課題。
――封印について、現時点での認識を整理してくること。
そのために、これまで集めた資料を見直していた。
フィーナが一枚の紙へ視線を落とす。
「やっぱり不自然ですよね。」
「ああ。」
ルークランも頷いた。
机の上には王都で見つけた文献と、フィーナから聞き取ったシルヴァリアの口伝を書き起こした記録が並んでいる。
「一致している部分は多い。」
ルークランが言う。
「だが、肝心な部分が抜けている。」
フィーナは静かに頷いた。
シルヴァリアの口伝には、封印には三者が必要であること、そして『傍らに立つもの』の存在が語られていた。だが王都の文献には、その部分だけが見当たらない。
「昔から伝わっていないのか。……それとも、」
ルークランが考えるように言い、フィーナが顔を上げる。
「意図的に消されたのか。」
二人の間に沈黙が落ちた。答えは分からない。それでも、偶然とは思えなかった。
「ひとまず、教授にはこの段階まで報告するしかないな。」
ルークランが魔法紙をまとめる。
「そうですね。」
フィーナも頷いた。
そこでふと思い出したように鞄へ手を伸ばす。
「あ。」
「どうした。」
鞄から取り出した包みを、フィーナは一瞬だけ強く抱え込んだ。
たかがお弁当なのに、妙に緊張する。
夏休みに入ってから、食堂でルークランが食事をする様子を、フィーナは何となく見ていた。特に好き嫌いがあるようには見えず、出されたものを、いつも静かに食べているだけだった。
だから今日は、家でよく作っていた、飾り気のない料理にしてみた。
「約束してたご飯、作ってきました。」
ルークランが顔を上げる。
包みを受け取って中を開くと、わずかに目を見開いた。
「……ありがとう。」
「お口に合えばいいんですけど。」
フィーナが照れたように笑う。
昼食の時間になり、二人は図書館前の中庭でそれを食べた。
ルークランは一口食べて手を止める。
「どうですか?」
少し不安そうな声。
「……美味い。」
フィーナの顔がぱっと明るくなった。
「良かった。」
(たった一言で、こんなに嬉しくなるなんて。)
自分の反応に、フィーナ自身も少し戸惑っていた。
ルークランは、手元の料理にもう一度目を落としていた。
「普段から作るのか。」
「はい。家でもよく手伝っていましたし。」
フィーナは笑う。
「そんなに難しくないですよ。」
ルークランはしばらく黙り込んでから、口を開いた。
「……俺もやってみたい。」
「え?」
「料理を。教えてくれ。課題も、ひと段落したしな。」
フィーナがまばたきをした。
「やったことはあるんですか?」
「ない。」
「…………。」
「問題か。」
「い、いいえ。」
フィーナは少し考えてから、こくりと頷いた。
「分かりました。じゃあ明日、調理実習室で。」
*
調理実習室は、もともとそう頻繁には使われない場所だった。この日も、二人のほかには誰もいなかった。
フィーナがエプロンをつけながら材料を並べている横で、ルークランは静かに腕まくりをした。
「まず野菜を切ります。」
フィーナがニンジンを渡す。ルークランは包丁を手に取った。
一太刀――ニンジンが、こんっと音を立てて床に転がった。
「……。」
フィーナが追いかけて拾う。ルークランは間をおいて構え直したが、二本目もまた転がった。
「……。」
フィーナは思わず、ふふっと笑った。リトが似たような顔で失敗していたのを思い出す。
それでも、ルークランの横顔はどこまでも真剣だった。
鍋では、出汁が焦げかけていた。
「あ、一回火、止めますね。」
フィーナがさっと手を伸ばし、火を止めた。
「……すまない。」
「初めてなら、これくらい普通ですよ。」
フィーナが笑う。
けれど、野菜を切る手はまだ追いつかず、それでも一言も弱音を吐かなかった。
出来上がったものは、正直なところ褒められた出来ではなかった。
「……まずい。」
ルークランが自分で言った。
「美味しいですよ?」
「気を遣わなくていい。正直に言ってくれ。」
「気を遣ってるわけじゃないです。」
フィーナは箸を進めながら言った。
「だってルークランさんが作ってくれたご飯ですもん。」
ルークランは少し黙った。
フィーナはまだ、さっきの光景を思い出しているように、くすっと笑った。
「リトも最初はこんな感じでした。」
くすくす笑いながら続ける。
「初めて作ってくれた時のごはん、これに似てるなって。」
ルークランはわずかに眉を動かした。
弟扱いは失礼だっただろうか。フィーナは少しひやりとした。
「……そうか。」
短い一言だった。それでも、また箸を進めるルークランの横顔は、どこか穏やかに見えた。
翌日、ルークランはフィーナを調理実習室に誘った。
「えっ、またやるんですか?」
フィーナが目を丸くする。
「前回は失敗した。」
淡々と返して、包丁を手に取る。
フィーナはそれを見て、小さく笑った。
――悔しかったんだ。
口には出さなかったが、なんだか可笑しかった。
その日は、ニンジンが転がらなかった。
それからも、ルークランは時々フィーナを調理実習室に誘った。
毎日ではない。
図書館で夏休み前の授業を復習したり、これまで集めた封印の資料を読み返したり。錬成ドームへ行って、制御訓練をする日もあった。
そうして過ごす合間に、ときどき料理をする。
気づけば、それも夏休みの日常のひとつになっていた。
*
ある日の昼下がり。
食事を終えた二人は、中庭のベンチで少し休んでいた。
夏の日差しはまだ強かったが、大きな木の下には涼しい影が落ちている。
フィーナは隣に座るルークランをちらりと見て、それから、そのさらに向こうへ視線を移した。
さっきから気になっているものがあった。
ルークランの隣に置かれた、布で巻かれた細長いもの。
図書館へ行く時には見かけないものだった。
何だろうと思いながら、なんとなく訊くきっかけを逃している。
すると、ルークランがそれへ手を伸ばした。
布を解くと、中から現れたのは一振りの木剣だった。
「あ……剣、なんですね。」
「ああ。」
ルークランは短く答えると、それを持ったまま立ち上がった。
「少し振ってくる。先に戻っていてくれて構わない。」
そのまま行ってしまいそうな気配に、フィーナは思わず声をかけた。
「あの、見ていてもいいですか。ルークランさんが剣を振るところ、見てみたいです。」
ルークランは数秒黙ってから、「……好きにしろ」とだけ言った。
少し離れた芝生で、木剣を構える。次の瞬間、風を切る音がした。
踏み込みは鋭く、軸はぶれず、木剣が流れるように走る。
フィーナは思わず見入った。
速くて、無駄がなくて、それでいて危なげがない。振るうたびに、黒い髪が揺れる。
――かっこいい。
そんなことを、ぼんやり思った。
ふいにルークランがこちらを見た。目が合うと、フィーナはなんだか嬉しくなって笑った。
ルークランは何も言わず、また木剣を構え直す。
料理をする横顔も、剣を振る横顔も。
いつの間にか、それを見るのがフィーナの楽しみになっていた。




