09│ハチミツみたいな -02-
翌日、図書館は静かだった。
あの日から、なぜかフィーナの姿を目で追うことが増えていた。
隣でフィーナが文献を書き写している。
ふと風が吹き、甘い匂いがかすかに揺れた。
ルークランの手が止まる。
また、この匂いだ。ずっと気になっていた。
彼女なら――と思った。
低く口を開く。
妙に個人的なことを訊く気がして、あえて用件だけを口にした。
「……セレス。」
「はい?」
「香水は使っているか?」
フィーナがきょとんとする。
「香水、ですか?」
「ああ。」
フィーナは首を横に振った。
「使ってません。」
ルークランは口をつぐむ。だが匂いはする。
「……石鹸は。」
「石鹸?」
フィーナはますます不思議そうな顔になる。
「学院支給のものですよ?」
ルークランは言葉を探すように視線を逸らした。
フィーナは少し身を乗り出す。
「あの、急にどうしたんですか?」
ルークランはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……甘い匂いがする。」
フィーナがぽかんとした。
「甘い?」
「……ハチミツみたいな。」
言いながら、ルークランはわずかに目を逸らした。自分でも説明しづらい。
フィーナは自分の袖をくん、と嗅ぐ。
「うーん……。」
真剣に悩み始める。
「今日も昨日も、ハチミツは食べてませんし……。」
指を折りながら考える。
「石鹸も香りがないものですし……。」
それから顔を上げた。
「今日だけですか?」
ルークランは答えない。視線を落としたまま黙っている。
フィーナが不安そうに首を傾げた。
「ルークランさん?」
しばらくして、ルークランは低く呟く。
「……最初からだ。」
「え?」
「入学式の日から。」
フィーナの動きが止まる。
「……えっ?」
図書館に静寂が落ちた。窓の外で、夏の風が木々を揺らしている。
ルークランはそれ以上何も言わなかった。
フィーナは落ち着かなげに目を伏せ、それから少し不安そうに、ルークランを見た。
「えっと……。」
遠慮がちに尋ねた。
「もしかして、嫌な匂いですか?」
ルークランは即座に否定した。
「そんなわけない。」
あまりに早い返答に、フィーナがぱちりと瞬きをする。
「でも……。」
少しばつが悪そうにする。
「なんか、ルークランさん嫌そうで……。」
ルークランは言葉に詰まった。数秒黙る。それから小さく息を吐いた。
「……言うのが嫌だっただけだ。」
視線を逸らしたまま続ける。
「君の匂いは嫌じゃない。むしろ落ち着く。」
「落ち着く?」
フィーナは不思議そうにしながらも、静かに待った。
まっすぐに見つめてくるその視線から、目を逸らせなかった。
本当は、あまり触れたくない話だった。それでも根負けするように、ルークランは静かに口を開いた。
「昔。」
低い声が、静かな図書館へ落ちる。
「父上に酷く叱られたことがあった。」
フィーナは静かに耳を傾ける。
「そのあと厨房へ逃げ込んで……泣いていた。」
ルークランは少し眉を寄せた。思い出したくない記憶みたいに。
「その時、料理長がハチミツのかかった甘いパンをくれた。」
フィーナが目を瞬かせる。
「……あたたかくて、甘い匂いだった。」
ルークランはそこで言葉を切る。
「君の匂いは、それに似てる。」
静寂。
フィーナはしばらくルークランを見つめていた。少し困ったような、何かを考えるような顔をした。
「小さな、ルークランさん……」
ルークランは、息を止めた。
フィーナは、ふわりと笑った。
「……あったかかったんですね。」
ルークランは少しだけ目を見開いた。
「話してくれて、ありがとうございます。」
笑われるかもしれないと思っていた。情けないと思われるかもしれないと。
だがフィーナは違った。泣いていた自分を否定しない。格好悪い記憶として扱わない。
そのことに、胸の奥が静かにほどけていく。
――ああ。
話して、よかった。
結局、匂いの理由は分からないままだった。
でも、なぜかそれでもいいと思った。
ルークランはそんなことを思いながら、静かに視線を伏せた。
しばらくして、フィーナが静かに言った。
「ルークランさんも落ち着く匂いします。」
ルークランがわずかに目を上げる。
「シルヴァリアの森みたいな匂い。」
「……それは香水だ。アストレイドの後継だけが使う。」
フィーナは一瞬だけ目を丸くした。
驚きの色は、すぐに何かを納得したような表情へと変わっていく。
そのまま、ふっと頬を緩めた。
「そうなんですね。……私、この香り、好きです。」
ルークランは何も言えなかった。
物心ついたころから、この香りをまとうことは決められていた。深い森を思わせる、樹木と土、それからかすかな草花の香り。
幼い頃からあまりにも身近にあったせいで、ルークラン自身は特別に意識したことなどなかった。
自分で選んだものでもない。ただ、アストレイドの後継である自分がまとうもの。それだけだった。
社交の場では、もっと華やかな香りがいくらでもある。それに比べれば、ずいぶん静かな香りだと自分でも思っていた。
なぜ代々この香りなのか、考えたこともない。初代から続く慣習だと聞いている。それ以上の理由を、尋ねようとも思わなかった。
けれど。
――私、この香り、好きです。
フィーナは、それをシルヴァリアの森みたいだと言った。
そして、好きだと。
その言葉が、妙に耳に残った。
自分にとってはただ受け継いできただけの香りを、彼女は懐かしそうに、嬉しそうに受け取った。
それなら。この香りでよかったのかもしれない。初めて、そんなふうに思った。
ただの香水の話だ。それ以上の意味はない。
そう結論づけようとするのに、どうしてもうまくいかなかった。
「好きです」と言われただけのことが、なぜこんなに引っかかるのか。
考えても答えは出ないのに、気づけばまた、そのことを考えている。
フィーナの笑った顔と、あの日の甘い匂いの記憶は、いつまでも頭から離れなかった。




