09│ハチミツみたいな -01-
その日も、図書館のいつもの席で、二人並んで文献を広げていた。
ふと、ページをめくろうとしたルークランの袖口に、一本の糸がほつれて垂れているのをフィーナが見つけた。
「ルークランさん、ローブほつれてますよ。」
ルークランは少し眉を上げた。袖口を確かめ、わずかに眉を寄せる。
それからローブを脱ぎはじめた。
「あの、もしよければ直しますよ。」
言うより先に、フィーナは鞄の中を探っていた。
取り出したのは、小さな裁縫道具だった。
ルークランがわずかに目を見張る。
「いつも持ってるのか。」
「はい。念のために。」
そう言いながら、フィーナは椅子を引き寄せてルークランの隣に座った。当たり前のように。頼まれたわけでもなく、ただ自然に。
ルークランは動かないでいた。
フィーナの手が、袖口をそっと持つ。
手慣れた動きだった。針の運びに迷いがない。一針ずつ、丁寧に。まるで大切なものを扱うように。
なぜか、目が離せなかった。
アストレイド家では、衣類の管理は使用人が行う。ほつれがあれば取り替える。繕うという発想はない。
だがフィーナは何でもないことのように針を動かしている。大げさなことだとは思っていない様子で。
数分後、フィーナが糸を切った。
「はい、できました。」
ルークランは袖口を確かめた。
跡が分からないほど、きれいに繕われている。
「うまいな。」
フィーナがぱっと顔を上げる。
「本当ですか?」
少し嬉しそうに笑った。
「良かった。」
裁縫道具をしまいながら続ける。
「応急処置なので、ご実家に帰ったらちゃんと直してもらった方がいいと思います。」
ルークランは小さく頷いた。
「……礼を言う。」
「いえいえ。」
フィーナは軽く手を振った。
「課題のお礼です。」
「課題の?」
「夏休みもこうして付き合ってくださっていますし。」
にこりと笑う。
「だから、おあいこです。」
ルークランは少し眉を寄せた。
「それとこれは別だ。」
「別ですか?」
「別だ。」
短く言い切る。
フィーナはきょとんとしたあと、困ったように笑った。
「でも、本当に大したことじゃないんです。」
ルークランはしばらく黙った。
そして視線を袖口へ落とす。
「……俺には、大したことに思える。」
フィーナは首を傾げる。
意味が分からない、という顔だった。
ルークランはそれ以上説明しなかった。
*
数日後、ルークランはフィーナの前に小さな箱を置いた。
「……開けてくれ。」
フィーナは言われるまま、箱を開けた。
中に入っていたのは一本の羽ペンだった。黒くなめらかな軸に、金の装飾。学院の売店では見たことのない品だ。
「……わあ。きれい。」
思わず出た、という声だった。
「どうしたんですか、これ。」
「礼だ。」
「礼……?」
フィーナはまだ、ぴんと来ていないようだった。
「ローブだ。」
「……あ。」
ようやく気がついた顔になる。
「いえ、こんな立派なもの……。」
「受け取ってくれ。アストレイドに出入りしている職人に頼んだ。長く使えるものだ。」
問題はないだろう、と言いたげな口調だった。
だがフィーナは、少し眉を下げた。
「……ルークランさんのご実家で誂えるようなものをいただくのは、さすがに、違う気がして。」
ルークランは黙った。
どうしても、分からなかった。
貴族同士なら、礼として差し出されたものを断ることはまずない。
少なくとも、ルークランは今まで一度も断られたことがなかった。
「直したお礼なら、ちゃんと『ありがとう』って言ってもらえました。それで十分なんです。」
しばらく沈黙が落ちた。
結局、彼女は首を縦に振らなかった。
ルークランは箱を引き取る。
フィーナは、ものを長く大切に使う人だ。
だから、長く使えるものを選んだ。ただそれだけのことのはずだった。
胸の奥には、妙にもやもやしたものだけが残った。
そのもやもやは、数日経っても消えなかった。
*
昼食を終え、連れ立って中庭を歩いていると、木陰の下から小さな鳴き声がした。
「にゃー。」
フィーナが足を止めた。
「あ。」
黒猫だった。中庭でときどき見かける猫だ。
フィーナがしゃがみ込むと、猫は警戒もせず足元へ寄ってくる。
「わ、覚えててくれたの?」
にゃーん、と甘える声。フィーナが目を細める。
しゃがんだまま、猫の頭をそっと撫でる。
「お腹空いたの?」
ルークランは少し離れたところから、その様子を見ていた。
フィーナはふと、餌の置いてある場所へ目をやった。器は空だった。
猫がもう一度鳴く。フィーナは弱ったように立ち上がり、ルークランの方を向いた。
「売店に行ってきます。」
「売店?」
「いつもは先生が餌をあげてるみたいなんですけど……。」
「……いないのか?」
「多分。夏休みですし……。」
フィーナは少し肩をすくめた。
「だから、買ってきますね。」
「……俺に出させてくれ。」
「え?」
「猫の分だ。君が気にすることじゃない。」
フィーナは瞬きをした。それから慌てて首を振る。
「い、いいですよ、それくらい……。」
だがルークランは引かなかった。
「せめて、これくらいはさせてくれ。」
静かな声だった。
フィーナは少し迷ったあと、ぱっと顔を輝かせた。
「……ありがとうございます!」
ルークランは、一瞬反応が遅れた。
フィーナはそれに気づくこともなく、しゃがみ込んで猫の顔を覗き込む。
「よかったね。買ってきてもらえるよ。」
猫がのどを鳴らす。フィーナの頬がゆるんだ。
その姿から、視線が動かなかった。
売店から戻ると、フィーナは猫の前に餌を置いた。黒猫は嬉しそうに尻尾を揺らしている。
フィーナはしばらく猫を見ていた。それから顔を上げた。
「お礼に、明日のお昼はごちそうさせてください。」
にこにこしている。
ルークランは思わず眉を寄せた。
「……今度は何の礼だ。」
「猫のごはんの。」
「……きりがないだろう。」
フィーナが「あ。」と困った顔をする。
数秒考えてから、ぽんと手を打った。
「じゃあ、今度なにか作ってきますね。」
ルークランは口を開きかけて、やめた。
羽ペンは受け取らなかった。労への対価は要らないと言った。なのに猫の餌ひとつであんなに喜んで、その上さらに礼を返そうとする。
意味が分からない。
そう思う。そう思うのに。
もらいっぱなしを良しとしないところも、一生懸命何かを返そうとするところも。
……かわいいな、と思った。




