08│ずっと大好きでいてくれる人と
夏の学院は、ひっそりとしていた。
廊下に人の姿はなく、日差しだけがいつもと変わらず差し込んでいる。
フィーナは図書館の扉を押した。
開館したばかりの館内に、まだほとんど人がいない。長い書架の列に、朝の光が斜めに落ちている。
見慣れた奥の席へ向かおうとして、フィーナは足を止めた。
すでにそこに、黒いローブの人影があった。
「……ルークランさん。」
「ああ。」
ルークランは顔を上げた。机の上にはすでに数冊の文献が広げられている。
「早いですね。」
「開館と同時に来た。」
当然のように答えて、また文献へ目を落とす。
フィーナは向かいの椅子に荷物を置いた。
夏休みの、最初の朝だった。
「まず、君の知っている伝承を聞かせてくれ。」
ルークランは羽ペンを取り出しながら言った。
「書き留める。」
フィーナは少し驚いたように顔を上げた。
「書き留める……?」
「口伝は変わる。覚えているうちに記録しておいた方がいい。」
淡々とした声だった。
フィーナは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
シルヴァリアに代々伝わる、封印の伝承。語り守の老婆から聞いた話。
ルークランは羽ペンを走らせた。フィーナが話す言葉を、一つも落とさないように。
「……それが、私の知っている全てです。」
フィーナが話し終えると、ルークランはしばらく魔法紙を見つめた。それから静かに言った。
「……もう一度、頼む。」
「え?」
「最初から。確認したい。」
フィーナはまた話し始めた。今度は少しゆっくりと。
ルークランは書き留めながら、時折小さく頷く。
二度目が終わると、ルークランは魔法紙に視線を落としたまま、わずかに眉を寄せた。
「"傍らに立つもの"という言葉は、何度も出てくるのか?」
「はい。語り守さんは、三者が揃わないと封印は完全じゃないって言ってました。」
「……三者。」
ルークランはその言葉を書き加えた。
静かな図書館に、羽ペンの音だけが流れる。
フィーナはその横顔をちらりと見た。
真剣な目。迷いのない字。
なんだか、むずがゆかった。
その日、魔法紙には新しい記録が何枚も増えた。けれど"傍らに立つもの"について書かれた文献は、まだ一つも見つからなかった。
*
最初の数日、二人はほとんど話さなかった。
それぞれのやり方は、少し違った。
ルークランは効率よく進んでいく。重要な箇所を素早く見極め、関連する文献を次々と繋げていく。羽ペンの走る音が、静かで、速い。
フィーナは一冊を丁寧に読み込む。気になった箇所に印をつけ、要点を書き出し、もう一度同じページへ戻ってくる。時間はかかった。でも、一ページも飛ばさない。
昼になると、それぞれ食堂へ向かった。
「昼食は?」
ルークランが一度だけそう聞いた。
「……食堂で食べます。」
「そうか。」
それだけで、お互い自然に別れた。
でも無言は苦じゃなかった。羽ペンの音と、ページをめくる音だけが流れる時間が、不思議と居心地よかった。
そんな日が続いたある昼下がり、ルークランが本を閉じてフィーナを見た。
「たまには制御訓練をしようか。」
フィーナは顔を上げた。
「いいんですか?」
「文献だけでは進まない部分もある。並行してやった方がいい。」
フィーナは少し間を置いてから、静かに頷いた。
*
夏の錬成ドームは、学期中より広く感じた。
夏休みで人けがないせいか、天井まで伸びる結界柱が一層高く見える。床の魔力紋様に、窓からの光が白く落ちていた。
「……難しいです。」
フィーナは小さく息を吐いた。
何度やっても、光の端がぐらりと揺れる。ルークランの闇の魔力が、そのたびに端を押さえ戻す。
桃花の月から続けている訓練だった。うまくいく日もある。光がすとんと落ち着いて、そのまま保てる日が。
だが今日は、同じところで何度も崩れる。
フィーナの唇が、悔しそうに引き結ばれる。
「焦るな。」
「でも……全然、思うようにいかなくて。」
また試みる。光が揺れて、広がりかける。
ルークランはそれを覆い、静かに戻した。
フィーナが肩を落とした。
「……ルークランさんって、制御はいつ頃から始めたんですか?」
「五歳くらいだ。」
フィーナの目が丸くなる。
「……だが、参考にならない。」
ルークランは続けた。
「まだ幼くて魔力も未熟な頃に始めたからな。一通り形になるまで三、四年かかった。今の君より、ずっと時間がかかっている。」
フィーナはしばらく黙っていた。
「……そんな小さい頃から、ずっと頑張ってたんですね。」
ルークランはわずかに目を細めた。
努力を見せるつもりはない。上に立つ者がそれを見せる必要はないと、幼い頃からそう考えてきた。
周囲から天賦の才だと思われても、わざわざ訂正したことはなかった。それで構わなかった。
ただ。
フィーナの言葉は、少し不思議だった。
フィーナは光を手のひらへ戻しながら、小さく眉を寄せた。
「私、全然できなくて……。」
悔しそうな声だった。
「でも。」
光を見つめたまま、フィーナは小さく笑った。
「ルークランさんでも何年もかかったんですから。」
少しだけ力を込めるように続けた。
「私も、ちゃんと積み重ねないとですね。」
ルークランは何も言わなかった。
フィーナはすでに次の制御へ意識を向けている。
失敗した場所ではなく、その先へ。ただ、できるようになるまで続ければいいと思っているように。
ルークランはその横顔を見つめた。
その考え方は、嫌いではなかった。
気づけば、さっきまでより自然に肩の力が抜けていた。
光はまだ安定しない。それでも、少しずつ前へ進んでいる気がした。
*
数日が経つうちに、会話が増えた。
文献の話。気になった記述の確認。関連しそうな地名や年代の照らし合わせ。話すことはいつも研究のことだったが、やり取りが増えるにつれ、互いの言葉の間合いが少しずつ馴染んでいった。
そんなある日の午後、ルークランは席に着くなり、手紙を机の上にぽんと置いた。
フィーナは顔を上げた。
(……珍しい。)
ルークランは普段、物を丁寧に扱う。教材も文献も、音を立てずに置く。
だが今の手紙は、明らかにいつもと違う置き方だった。
そして、小さいが確かに聞こえるため息をついた。
フィーナはペンを止めた。
「……どうしたんですか?」
ルークランは答えなかった。文献を手に取り、開こうとした。だがそのまま、また置いた。
沈黙。
フィーナは少し首を傾げた。
「……何かありましたか。」
ルークランはしばらく机の上の手紙を見ていた。それから、静かに息を吐く。
「……家から帰って来いと言われている。」
ぽつりとした声だった。
「……ご実家ですか?」
「ああ。」
また沈黙。
「……婚約者を決めろとも。」
フィーナはペンを置いた。
「……婚約者……。」
「アストレイドは伴侶を自分で決める。だから、社交界に出て候補と会って来いと言われている。」
フィーナは少し間を置いてから、静かに言った。
「……私のことは気にしないで、帰ってもらっても大丈夫ですよ。」
「必要ない。」
短い返事だった。
少し間を置いて、ルークランは続けた。
「……正直、あまり帰りたくない。」
普段のルークランなら、もっと理由を添えて答えそうなものなのに、今のは、ただの本音だった。
否定的な言い方をするルークランが珍しくて、なぜか印象に残った。
フィーナは少し黙った。
胸の奥が、なんとなく落ち着かなかった。
夏至祭のとき、ミアが言っていた言葉を、ふと思い出す。
――特にアストレイド様は本命中の本命だし!
同じ図書館で、同じ文献を読んでいても、ルークランは本当は住む世界が違う人なのだ。
それからしばらくして、静かに口を開く。
「……候補の方と会う、というのはどういうことをするんですか?」
「……社交の場に出て、候補と顔を合わせる。茶会や夕食の席で、何度か言葉を交わす。それで判断する。」
フィーナはしばらく黙った。
「……それだけ、ですか?」
「ああ。」
「その……もっと、こう……。」
うまく言葉にならなかった。
ルークランはフィーナを見た。
「何かが足りないのか?」
「いえ、足りないというか……。」
フィーナは少し困ったように笑った。
「私には、ちょっと想像がつかなくて。」
ルークランは少し視線を落とし、束の間黙り込んだ。何かを探すような間だった。
「……君の故郷では、」
「はい?」
「どう結婚相手を決めるんだ?」
フィーナは少し考えて、困ったように首をかしげた。
「どう、と言われても……。決まったやり方があるわけじゃなくて。」
ルークランがわずかに眉を寄せた。
家格の釣り合いや、家同士の取り決め――そういうものがあると思っていたらしい。
「シルヴァリアだと……村のお兄さんやお姉さんが、なんとなく一緒にいて、畑仕事も一緒にして。仲がいいなって思っていたら、いつのまにか結婚の話になっているんです。気がついたら、みたいな感じで。」
「……気がついたら。」
ルークランには、その感覚がよく分からないようだった。
「何度か会えば、相手のことはだいたい分かるだろう。」
フィーナは少しためらってから、打ち明けるように続けた。
「……私は、何度かお話しするだけじゃ、好きになれないかもしれません。」
少し間を置いて、ルークランが訊いた。
「……なら、君はどうやって選ぶつもりだ。」
フィーナは指先を合わせながら、言葉を探した。
「たくさん一緒にいて。いろんなことを、一緒にやって。嬉しいことも、そうじゃないことも、いっぱい知って。」
一度言葉を切って、少し照れたように声を落とす。
「そうやって、一緒にいるのが当たり前になって……。そこから少しずつ、好きになっていけたらいいなって。」
ルークランは、いつのまにか羽ペンを止めていた。
「……ずいぶん、手間がかかるな。」
「そうかもしれません。」
フィーナは少し笑って、それから小さく首をかしげた。
「でも、いつか結婚する相手となら、手間をかけてもいいと思いませんか?」
ルークランは、すぐには答えなかった。
しばらく黙ってから、静かに訊いた。
「……それで、君は相手に何を望むんだ。」
「私は……大好きな人と結婚したいです。それから――」
頬を染めながら、それでもはっきりと続けた。
「私のことをずっと大好きでいてくれる人と。……子どもっぽいですよね。」
「そんなことはない。」
短く、しかし迷いのない声だった。
フィーナはわずかに目を丸くした。
(……ずっと大好きでいてくれる人。)
貴族の婚姻には、そういう言葉は出てこない。家格、魔力の相性、政治的な均衡――そういうものだ。
だがフィーナはそこに、"ずっと大好きでいてくれる"を置いていた。当然のことのように。
「……ルークランさんは?」
フィーナが小さく顔を上げた。
「どんな人と、結婚したいんですか?」
「然るべき時に、家にとって最も適切な相手を選ぶつもりだ。」
「適切な相手……ですか?」
「家格。政治的な均衡。魔力の相性。そういったものだ。」
フィーナは、それきり何も聞かなかった。
「……そうなんですね。」
静かな声だった。
そういうものなのか、とフィーナは思った。ただ、それだけだった。
その後しばらく、どちらも文献へ目を落としていた。けれどルークランは、時折ページをめくる手を止めて、同じあたりをじっと見ている。
何か考えているようだった。
(……変なこと、言っちゃったかな。)
フィーナはそっとその横顔をうかがってから、また文献へ目を戻した。
*
ある午後、フィーナが机の上に荷物を広げながら、何かを手元でいじっているのに気づいた。
小さな道具を使って、鞄の金具を丁寧にいじっている。
「……壊れたのか?」
フィーナが顔を上げた。
「金具が閉まらなくて……。」
弱ったように眉を下げる。
ルークランは鞄を見た。
使い込まれ、持ち手には補修の跡があり、革の表面にも細かな傷があった。
「……君は奨学生だろう。教務課へ行けば新しいものを支給してもらえる。」
フィーナはきょとんとした。
「そうなんですか?」
それから鞄を抱えるように引き寄せる。
「でも、これは替えたくなくて。」
「なぜだ。」
フィーナは、少しだけはにかんだ。
「これ、お父さんがお母さんに贈ったものなんです。」
ルークランがわずかに目を上げる。
「お母さんがずっと使っていて……。学院へ来る時に譲ってもらいました。」
そう言いながら、金具にそっと指を添えた。
「だから、できれば長く使いたいなって。」
ルークランは鞄へ視線を落とした。
アストレイド家にも、代々受け継がれる品はある。
だがそれは、初代公爵の剣や公爵夫人の宝飾品、儀礼用の調度品といった、家の歴史を示すものだ。
日常で使う鞄や服とは、種類が違う。傷んだなら新しくする方が合理的だと、ずっとそう考えてきた。
だが。
フィーナの指先は、まるで大切な宝物に触れるように、鞄の金具をそっと撫でていた。
「家族の仲が良いんだな。」
フィーナは顔を上げた。嬉しそうに笑う。
「はい。お父さんとお母さん、本当に仲が良いんです。」
その声は少し誇らしげだった。
ルークランは少し黙った。
昨日聞いた言葉を思い出す。
――好きな人と結婚したい。
――私のことをずっと大好きでいてくれる人と。
フィーナにとっては、それが当たり前なのだろう。
フィーナはすでに鞄の金具へ視線を戻していた。
「……我が家も。」
珍しくルークランが口を開いた。
フィーナが顔を上げる。
「え?」
「父上と母上は仲が良い。」
そっけない声だった。けれど珍しく、少しだけ続ける。
「母上はよく父上を振り回しているが。」
フィーナが思わず笑った。
「そうなんですか?」
「ああ。」
ルークランは本を閉じた。
「だが父上はそれを嫌がっていない。」
むしろ楽しそうにしていることを思い出す。幼い頃から何度も見てきた光景だった。
「だから、たぶん仲は良いんだろう。」
フィーナはくすりと笑った。
「ふふっ。」
その笑顔を見て、ルークランは少しだけ肩の力を抜いた。
フィーナは思い出したように鞄へ視線を落とし、金具をもう一度いじった。かちり、と小さな音を立てて、留め具がきちんと閉まる。
「あ……直りました!」
フィーナは嬉しそうに鞄を軽く掲げて見せた。
二人はしばらく、そのまま穏やかな沈黙に包まれていた。
窓の外では蝉が鳴いていた。気づけば、夏休みも半分近くが過ぎている。
*
いつの間にか、昼食も一緒になっていた。
特に決めたわけではない。気がつけばそうなっていた。
食堂の窓際の席に並んで座ることもあれば、売店のパンを外へ持ち出すこともある。ときどき、学院の外のカフェへ足を伸ばした。
会話は多くない。でも、沈黙が苦ではない。
それがいつの間にか、夏の日常になっていた。
フィーナが夕方に弱いことに、ルークランが気づいたのは、少し経ってからのことだ。
夕方が近くなると、反応がわずかに遅くなり、話の間も少し長くなって、目元がほんの少しだけ重そうになる。
「……もう眠いのか。」
ある夕方、そう言うと、フィーナははっとして顔を上げた。
「す、すみません……。夕方になると、どうしても……。」
「謝らなくていい。」
ルークランは文献を閉じた。
「今日はここまでにしよう。」
「でも、まだ続けられます。」
「無理をしない方がいい。」
フィーナはしばらく迷ってから、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。」
荷物をまとめながら、フィーナはなんとなく窓の外を見た。
夕暮れの空が、橙色に染まり始めている。
ルークランは荷物を持ち、いつも通りの歩幅で歩き出す。
フィーナはその隣を歩いた。
夏の風が、学院の回廊を静かに吹き抜けていった。




