07│明日から夏休みですね -02-
一年生、初めての考査が終わった。
廊下はざわざわしていた。答え合わせをしている組、頭を抱えている組、さっさと寮へ戻ろうとしている組。初めての考査が終わった直後の、独特の空気だった。
フィーナは教室を出たところで、ふうっと息を吐いた。手が、少し震えている。
終わった。それだけで、じわじわと力が抜けていくような気がした。
「フィーナ!」
振り向くと、ミアが駆け寄ってきた。隣にラナもいる。
「どうだった!?」
「……たぶん、全部は書けたと思う。」
「たぶんって何。もう、フィーナは答えが曖昧すぎる。」
フィーナは思わず笑った。三人で並んで廊下を歩き出す。安堵と、結果への不安とが、まだ胸の中で混ざり合っていた。
ミアがふと、フィーナへ目を向けた。
「……フィーナ、なんか落ち着いてるね。ずっと必死に勉強してたのに。」
フィーナは少し考えてから、小さく頷いた。
「……やれることはやったから。」
ミアはそれ以上何も言わなかった。
ラナが静かに言った。
「今日はゆっくり休みましょう。」
*
結果が張り出されたのは、翌日の昼だった。
廊下の掲示板には人だかりができていた。フィーナがようやく前へたどり着いた頃、後ろからミアの声が飛んできた。
「フィーナーーー!!」
振り返る間もなく、両肩をぐわんと揺さぶられた。
「5位!!フィーナ5位だよ!!」
フィーナは反射的に唇へ指を当てた。
「すごくない!?貴族の子たちと並んで5位って!!」
ミアはフィーナの手を取ってぶんぶん振った。周囲の生徒がちらちらとこちらを見ている。
「……よかったですね。」
ラナが穏やかに微笑んだ。ミアとは対照的に落ち着いた声だったが、目元がやわらかく細まっていた。
「ありがとう。」
フィーナはようやく息をついた。
「正直、終わったときは全然わからなくて……。」
「それで5位なの!?」
ミアが目を丸くする。
フィーナはもう一度掲示板へ目をやった。
一番上には、見慣れた名前があった。
ルークラン・アストレイド。首席。
(……やっぱり。)
でもそれは、当然だという感じではなくて。ちゃんと積み重ねてきた人なんだな、という、静かな納得だった。
「ねえ、」
ミアが身を寄せてくる。声が少し低くなった。
「フィーナ、急に伸びたじゃん。何かしたの?」
「え。」
「先週まで毎日図書館に籠もってたでしょ。」
「……勉強してただけだよ。」
「一人で?」
フィーナは少し間を置いた。
「……少し、教えてもらってて。」
「誰に?」
「……ルークランさんに。」
「え、アストレイド様に!?」
「声が大きいです。」
ラナが静かに窘める。
ミアは目を丸くしたまま、少し声を落とした。
「一週間、毎日?」
「……うん。」
フィーナは少し間を置いた。
「……ルークランさんと、前からレイナード教授のところへ行く話があって。それで成績が必要で……。」
「それだけでアストレイド様が毎日来てくれるの?」
「……責任を感じてくれたんだと思う、たぶん。」
「へえ……。」
ミアは何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
「フィーナ!」
振り向くと、カインだった。
「初めてのテストで五位って、普通にすごいだろ!」
「あ、ありがとう。でも……。」
「でも、じゃなくて。本当すごいって。」
カインはそう言って、快活に笑った。その隣には、ルークランもいた。
フィーナは思わず背筋を伸ばした。
「ルークランさん、首席おめでとうございます。」
「ありがとう。」
短い返事。いつも通り落ち着いている。
ルークランは掲示板を見上げたあと、視線をこちらへ向けた。フィーナを見て、それから隣で「すげーな」と笑うカインへ、一度だけ目をやる。
「……セレス。」
「はい。」
「レイナード教授が時間を取ってくださるそうだ。今日、このあと研究棟へ来るように、と。」
シルヴァリアの封印について。ずっと聞きたかったこと。頭の中で、その言葉だけが鮮やかに弾けた。
「ありがとうございます……!」
思わず顔が明るくなる。ルークランは小さく頷くだけだった。
「行くぞ。」
「は、はい!」
慌てて返事をして、フィーナはミアを振り返った。
「ごめん、ちょっと行かなきゃいけなくて。」
「えぇ、レイナード教授のところまで?」
ミアが驚いた声を上げる。それから、少し離れたところで待つルークランへちらりと目をやり、フィーナへ視線を戻した。
「……アストレイド様と、二人で?」
どこか探るような声だった。
「う、うん……行ってきます!」
フィーナはそう言い残すと、廊下を早足で進んだ。少し前を歩くルークランの背中を目で追う。相変わらず姿勢が綺麗で、歩き方にも迷いがない。
その背中を追いかけながら、フィーナは胸の奥が少しだけ弾むのを感じていた。
*
レイナード教授の研究室は、学院塔の奥にあった。
壁一面に古い文献が並び、机の上には魔法陣の描かれた羊皮紙が積み重なっている。
レイナードは二人を見ると、穏やかに笑った。
「テスト、お疲れ様でした。」
それからルークランへ視線を向ける。
「アストレイド君は入試に引き続き今回も完璧ですね。」
「ありがとうございます。」
ルークランは淡々と頷いた。
教授はやわらかく目を細め、それからふいに問いを投げた。
「さて——君たちは、封印について聞きたいということですが。現時点で、封印のことをどれだけ知っていますか?」
ルークランは少しも迷わなかった。
「建国期、世界の均衡を保つために張られた大封印です。暴走する魔力を抑え、生命の循環を維持するためのもの。封印には"制御"と"生命"の力が必要とされ、アストレイド家は代々"制御"を継承しています。」
静かな声が研究室へ響く。まるで教本を読むように、淀みなく続いた。
レイナードは満足そうに頷いた。
「完璧ですね。」
だが。
フィーナは、どこか腑に落ちない顔をしていた。
その表情に気づいたのか、レイナードがフィーナへ視線を向ける。口元には、どこか含みのある笑みが浮かんでいた。
「セレスさんは、どうしましたか?」
まるで答えを知っていて、あえて尋ねているような声だった。
「あ……いえ、その……。」
フィーナは言葉を探すように視線を彷徨わせた。うまく言葉にならない。
「セレス。」
ルークランが静かに促した。
「知っていることを、そのまま話せばいい。」
その一言に、フィーナは小さく頷いた。
「……あの、私の知っている話とは、少し違うんです。」
ルークランが視線を向ける。フィーナは少し緊張したように続けた。
「シルヴァリアでは、"生命"と"制御"と——」
そこで一度迷う。
「"傍らに立つもの"の三者、って伝わっています。」
一瞬、空気が静まった。
ルークランがわずかに眉を寄せる。
「……傍らに立つもの?」
フィーナは不安そうにルークランを見た。
「ち、違いましたか?」
二人の視線がぶつかる。
レイナードはそんな二人を、面白そうに眺めていた。
「やはり、そうでしたか。」
フィーナとルークランが同時に教授を見る。
レイナードは椅子へ深く腰掛けた。
「明日から夏休みですね。」
突然、話題が変わる。
「セレスさんは帰省されますか?」
フィーナは小さく首を振った。
「いいえ、帰りません。」
その言葉に、ルークランがわずかにフィーナを見た。
レイナードは今度はルークランへ視線を向けた。
「アストレイド君は? ——ああ、そういえば先日、社交界にデビューされたばかりでしたね。夏のご予定は、もう埋まっているのでは?」
穏やかな声だったが、どこか探るような響きもあった。
ルークランは、すぐには答えなかった。
いつも即答する人が、めずらしく間を置いている。フィーナはなんとなく、口を挟んではいけない気がして黙っていた。
「……残ります。」
理由も、言い訳もない返事だった。
レイナードは、ひとつ頷いた。
「では、二人に課題を出しましょう。」
穏やかな笑み。だが次の瞬間、その目が少しだけ真剣になる。
「まずは、封印について互いの認識を揃えてきてください。」
静かな声が研究室へ落ちた。
「話は、それからです。」
レイナードは本棚へ視線を向け、穏やかに続けた。
「学院図書館の文献だけでも、資料は十分あります。焦る必要はありません。まずは知ることです。」
フィーナは小さく頷いたものの、すぐに気になることが頭をよぎった。
(……待って。)
封印のことを聞きたかったのは自分だ。なのにルークランさんを巻き込んでしまった。しかも夏休みまで。
「あの。」
思わず口を開く。
「ルークランさんには、勉強会でも、今日の教授へのお話でも、もう十分すぎるくらい助けていただいています。……ですから、封印のことは私一人で調べます。」
ルークランがこちらを見る。
「夏休みのお時間まで取っていただくなんて、申し訳なくて……。ルークランさんにも、夏休みのご予定があるかと思いますし。私のことは気にせずに——」
「セレス。」
低い声が、遮った。
フィーナが口を閉じる。
ルークランはフィーナを静かに見た。
「俺が残ると決めた。」
それだけだった。
だが、少し間を置いて続ける。
「封印はアストレイド家も深く関わっている。」
フィーナが目を瞬く。
「俺も調べるつもりだった。」
ルークランは何でもないことのように言った。
「だから、君が気にすることではない。」
フィーナは思わず言葉を失った。
そこまで考えてくれていたとは思わなかった。
断る理由を探そうとしても、うまく見つからない。
「……でも。」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
ルークランは首を振る。
「遠慮は不要だ。」
フィーナは何も言えなかった。
ルークランはそれ以上説明することもなく、平然とした顔で書類に視線を落とす。
なぜそこまでしてくれるのだろう。
視線をさまよわせると、向かいに立つレイナード教授が、腕を組んでにこにことこちらを見ていた。
フィーナはますます居心地が悪くなって、そっと目を逸らした。
*
研究室を出ると、夕方の回廊には橙色の光が差し込んでいた。
フィーナは隣を歩くルークランに目をやった。
(……申し訳ないな。)
夏の予定をずらしてまで、そこまでしてもらっていいのか、まだ腑に落ちていなかった。
それと同時に、もう一つのことが頭にひっかかっている。
"傍らに立つもの"と言った瞬間、あの場の空気が変わった。ルークランがわずかに眉を寄せたのを、フィーナは見ていた。
余計なことを言ってしまったのだろうか。
シルヴァリアでは昔から語り継がれている言葉だ。
けれど、あれだけ知識のあるルークランさんですら知らなかった。
(……私たちの伝承、間違っているのかな)
フィーナがそっと視線を落とした、その時。
「セレス。」
低い声が落ちた。
フィーナが顔を上げる。
ルークランは立ち止まり、静かにこちらを見ていた。
「明日から、図書館へ来れるか?」
「え?」
「封印について調べよう。」
ルークランの表情はいつも通りだった。
フィーナはほっと息をつき、小さく頷く。
「はい、大丈夫です。」
ルークランも小さく頷いた。
「……だが。」
少し考えるように目を伏せる。
「王都にある書物で、"傍らに立つもの"という記述は見たことがない。」
それから、静かに続けた。
「君は、封印について文献を読んだことはあるか?」
フィーナは首を横に振った。
「いえ……。すみません。」
「謝らなくていい。なら、まずは代表的な文献をいくつか読むといい。明日図書館で教える。」
フィーナは小さく頷く。
「はい。」
二人はまた並んで歩き出す。しばらくして、ルークランがふと思い出したように尋ねた。
「……君の知っている伝承が書かれた本は持っているか?」
フィーナは少し困ったように笑った。
「いいえ。」
「家にあるのか?……シルヴァリアから送ってもらうことは可能か?」
「えっと……。」
フィーナは言いにくそうに視線を落とした。
「本、じゃなくて……。」
ルークランがわずかに首を傾げる。
「語り守の、口伝なんです。」
一瞬、沈黙が落ちる。
ルークランはすぐに納得したように目を細めた。
「……なるほど。」
辺境には、文字ではなく語り継がれる伝承も多い。特に古い土地ほど、その傾向は強い。
ルークランは少しだけ考え込んでから、静かに言った。
「なら、君の知っている話を整理する必要があるな。」
「整理……?」
「口伝は人によって細部が変わることもある。王都側の記録と比較した方がいい。」
まるで当然のように、フィーナの話を"調べる価値があるもの"として扱っていた。
そのことに、フィーナの胸がじんわりと温かくなった。
夏の風が、静かに回廊を吹き抜けていった。




