07│明日から夏休みですね -01-
図書館には、いつもより人が増えていた。
窓から差し込む夕暮れの光が、石造りの床を橙色に染めている。高い天井の梁には魔法灯が並んでいたが、まだ点いていない。それくらいの時間だった。
フィーナは窓際の隅の席へ陣取り、教科書を三冊開いたまま、もう一時間ほど同じページを行き来していた。
属性論。魔力波形の安定条件。制御式の応用展開。
書いたことを消して、また書き直す。魔法紙の余白は、もう真っ黒だった。
奨学生の資格には、成績の条件がある。一定以上を維持できなければ、取り消しになる。シルヴァリアから来たフィーナには、それ以外に学院にいる方法がなかった。
羽ペンを置いて、両手で頬を押さえる。
(……難しい。)
ため息を一つ吐いて、またテキストへ向き直した、その時。
「……随分と、机が賑やかだな。」
低く、どこか呆れたような声。
顔を上げると、黒いローブの少年が立っていた。
「ルークランさん。」
「ああ。」
ルークランは開かれたままの三冊の教科書と、余白が埋まりきった魔法紙を一瞥した。それから、特に断りもなく隣の椅子を引いた。
「少し見せろ。」
フィーナは少し慌てて魔法紙を差し出した。受け取ったルークランは、数秒かけて書き込みを読んだ。表情は変わらない。
「……思っていたより理解している。」
フィーナは少し顔を上げた。それからすぐ、真っ黒になった余白に視線を落とす。
「……本当ですか?でも、全然分からなくて……」
少ししゅんとした声だった。
「ここの展開が違う。式の前提を間違えている。」
羽ペンを取り、余白に短い式を書き足した。
「これを条件として加えると、全体の展開が変わる。もう一度最初から追え。」
フィーナはその式を見て、ゆっくり瞬きをした。それから、自分の魔法紙へ視線を戻す。もう一度読み直す。また読み直す。
「……なるほど。」
ぽつりと呟いたその声は、ずいぶん素直だった。
ルークランはそれを横目で見てから、静かに口を開いた。
「……まだ一週間ある。考査まで毎日ここで一時間、教える。」
フィーナは顔を上げた。
「……え。」
「授業が終わったあと。ここで。」
それだけ言って、ルークランはフィーナのテキストをひとつ手に取った。もう話は終わりだという空気だった。
「で、でも……ルークランさんは、いいんですか。」
「問題ない。」
「……どうしてですか?」
「……学院で習うことは、入学前に全て履修済みだからだ。」
さらりとした声だった。
「ぜ、全部ですか?」
思ったより大きな声が出た。
近くの席の生徒が、ちらりとこちらを見る。
フィーナは慌てて口を押さえた。
「す、すみません……。」
ルークランは特に気にした様子もなく、テキストへ視線を戻している。
「……すごいですね。」
「そうでもない。」
本当に何でもないふうに、ルークランはテキストへ視線を戻している。フィーナはその横顔を少し見てから、おずおずと続けた。
「……でも……そんなことしてもらう理由がありません。」
「レイナード教授のところへ行くと、言っただろう。」
フィーナの目が、丸くなった。
「……覚えていてくれたんですね。」
「当然だろう。封印について話を聞きに行く。教授はお忙しい。成績上位者にしか時間を割かない。……君の成績が、必要だ。」
春の終わりに交わした約束を、まだちゃんと持っていてくれていた。それだけのことなのに、じわりと胸が温かくなる。
フィーナは小さく頷いた。
「……ありがとうございます。」
ルークランは答えなかった。テキストをフィーナの前へ戻し、最初に書いた式を指す。
「続きを。」
「はい。」
フィーナは羽ペンを取り直した。ルークランが隣に座っている。それがなんだかまだ不思議で、少しだけくすぐったかった。
*
勉強会が始まって、三日が経った。
毎日、授業が終わるとフィーナは図書館の同じ席へ向かった。しばらくすると、ルークランが来た。それだけのことだったが、不思議とすぐに習慣になった。
その日も、夕暮れの光が窓から斜めに差し込んでいた。
「……ここまでは合ってますか。」
「ああ。続けろ。」
羽ペンを走らせる。式が一行、また一行と伸びていく。
しばらくして、フィーナは手を止めた。
「……ここから先が。」
ルークランは少しの間、黙って魔法紙を見た。
「後半で何が起きているか、分かるか。」
「えっと……式が、崩れてます。」
「なぜ崩れる。」
「……属性が干渉して。整理できていないから……ですか。」
「そうだ。だから変換式を挟む。属性の干渉を先に整理してから展開しないと、後半で必ず破綻する。」
羽ペンを取り、式を書き足す。
その動作が、静かだった。
音がしない、とフィーナは思った。羽ペンを取る音も、魔法紙に触れる音も、腕を動かす衣擦れさえも。全部が、ひどく自然に収まっている。
式が書き終わると、ルークランは羽ペンを魔法紙の端に静かに置いた。
「……分かったか。」
「はい。……綺麗に繋がりますね。」
フィーナはもう一度、書き足された部分を目で追った。
字が、整っていた。大きさが揃っていて、線に迷いがない。
教え方も、そうだった。
答えを渡すより前に、フィーナがどこで詰まっているのかを見つけて、そこから話してくれる。今日だけじゃない。毎日そうだった。
入学前にすべて履修済みだと言っていた。
天才だ、完璧だと誰もが言う。きっと、それも間違ってはいない。
でも、それだけじゃない。文字の一つひとつも、動きの一つひとつも——全部が、ずっと前から少しずつ積み重なってきたものなんだと思った。
胸の奥が、静かに温かくなった。
気づいたら、羽ペンを持ったまま手が止まっていた。
「……セレス。」
「っ、はい。」
慌てて魔法紙に向き直す。耳が少し熱い気がしたが、ルークランには見えていないはずだと思いたかった。
ルークランは特に何も言わなかった。
フィーナは式の続きを書きながら、そっと隣を見た。ルークランはもう手元のテキストへ視線を戻していた。
頬杖もつかず、背筋が自然にまっすぐだ。疲れているようにも、気を張っているようにも見えない。ただ、そういう人なのだと思う。
窓の外で、鳥が一羽、夕暮れの空を横切っていった。
フィーナは前を向いて、また羽ペンを走らせた。
*
考査の前日、図書館はいつもより早く静まり返っていた。
明日に備えて早めに切り上げた生徒が多いのか、夕暮れ時にはもうほとんど人が残っていなかった。
ぱたん、とノートを閉じる音が重なった。
窓の外は、夕暮れの色へ少しずつ変わり始めている。
「今日はここまでにするか。」
ルークランが教材を整えながら言った。
「はい。」
フィーナも魔法紙を重ね、小さく息をつく。
(……あれ。)
なんでだろう。別に、試験が終わっても会えなくなるわけじゃない。
それなのに——放課後、図書館へ来て。隣にルークランさんが座っていて。静かな声で教えてくれる時間が、もう終わると思ったら、なんだか落ち着かなかった。
「あ。」
ふと思い出して、フィーナは鞄を開けた。
「そうだ。これ、もし良かったら。」
取り出したのは、小さな栞だった。薄い紙に挟まれているのは、白と水色の花。ルナリアの押し花。
「……栞?」
「シルヴァリアを離れる時に作ってきたんです。」
フィーナは少しだけ笑った。
「ルークランさん、ルナリアを見てみたいとおっしゃっていたので。……押し花ですけど。」
ルークランの動きが、ほんの一瞬止まった。
「良かったら、勉強を見てくれたお礼に受け取ってください。」
ルークランは静かに栞を受け取った。長い指が、丁寧に紙を挟む。じっと花を見る。
「……大事なものじゃないのか?」
「何枚か作ったので。」
少し間を置いてから、付け加える。
「あ!でもこれ、一番綺麗にできたやつなんです。」
ルークランの視線がゆっくりと上がった。
「いいのか?」
「はい。」
少しの沈黙。それからルークランは、もう一度栞へ目を落とした。
「……じゃあ、使わせてもらう。」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「ルナリア、押し花にすると結構綺麗なんですよ。色も残りやすくて。」
「そうか。」
ルークランは静かに本を開いて、栞を丁寧に挟んだ。
会話はそこで途切れた。
ルークランが本を鞄へしまう。ペンを揃える。紙を重ねる。一つひとつの動きが静かで、フィーナはぼんやり眺めてしまった。
一週間、毎日ここに来た。最初は真っ黒だった魔法紙の余白が、今では整理された式でびっしり埋まっている。
自分で書いたものなのに、一週間前の自分が書いたものとは別物みたいだった。
「……あの。」
フィーナは少し迷ってから、ルークランを見た。
「一週間、ありがとうございました。」
ルークランはフィーナを見た。それから、ほんのわずかに目を細めた。
「よく頑張った。」
短い言葉だった。それから少し間を置いて、続ける。
「君なら、大丈夫だ。」
断言するような声だった。根拠を並べるわけでも、励ますわけでもなく、ただそう言った。
フィーナは少しだけ目を丸くしてから、小さく笑った。
「……はい。」
ルークランは静かに立ち上がり、椅子を元の位置へ戻す。その動作も、いつも通り音がしない。
フィーナも荷物をまとめながら、なんとなく図書館の中を見回した。
窓の外はもう薄暗くて、魔法灯が柔らかく灯っている。放課後にここへ来る時間も、明日からはもうない。
「セレス。」
「っ、はい。」
顔を上げると、ルークランがすでに荷物を持って立っていた。
「行くぞ。」
フィーナは急いで鞄を手に取り、立ち上がった。
並んで図書館を出る。石畳の廊下に、二人分の足音が響く。
昼間の暑さはもう引いて、外の空気には夜のにおいが混じり始めていた。




