10│今まで当たり前だった時間 -02-
ある日の午後、調理実習室には野菜を刻む音だけが響いていた。
窓から夏の風が流れ込み、白いカーテンを揺らしている。
「本当に手伝わなくていいんですか?」
「ああ。今日は俺が作る。」
ルークランは手を止めずに答えた。
「前回は君がほとんどやっただろう。」
有無を言わせない口調だった。フィーナは少し笑って、近くの椅子に腰掛ける。
「じゃあ、お言葉に甘えます。」
規則正しい包丁の音。鍋をかき混ぜる音。時折立ちのぼる湯気の匂い。会話はなくても、気まずくはなかった。
フィーナは頬杖をついて、その横顔を眺めた。
学院でのルークランは、いつも遠かった。首席で、訓練でも誰より優秀で、歩いているだけで人が道を開ける。それが今は、エプロン姿で鍋を覗き込んでいる。
その横顔を見ていると、自然と頬が緩んだ。
(不思議だな。)
図書館で課題をして、訓練をして、時々こうして料理をする。いつのまにか、当たり前のように隣にいる。
鍋がことことと煮える音に、包丁の音が重なる。ふと、シルヴァリアの夕飯時を思い出した。
父と母の声。リトの笑い声。
懐かしいはずのその記憶のそばに、今は隣で包丁を握るルークランの横顔もあった。
窓の外で蝉が鳴いている。
穏やかな午後の音が、子守歌のように重なって――気がつくと、まぶたが重くなっていた。
(少しだけ……)
そう思ったところで、意識が沈んだ。
*
夢を見た。
小さな家、母の笑顔、父の大きな手。
リトの元気な声が響いて、夕食の匂いと笑い声が家じゅうに満ちている。
懐かしくて、大好きな場所だった。胸が温かくなって、ずっとここにいたいと思った。
けれど、どこか遠くで誰かが呼んでいる気がした。
夢がゆっくり薄れて、光が遠ざかり、気配が消えていく。
そして――目を開けた。
夕暮れだった。
調理実習室は静かで、窓から橙色の光が差し込んでいる。夢だったのだと気づくと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
家族はいない。ここは王都で、シルヴァリアではない。
ふいに寂しさが込み上げて、ぽろりと涙が一粒こぼれた。
その時だった。
視界の端に黒い袖が映る。
「起きたか。」
低く落ち着いた声。
顔を上げると、ルークランが立っていた。
いつの間に近くまで来ていたのだろう。
フィーナは慌てて目元をこする。
「ご、ごめんなさい。」
「何故謝る。」
そう言って、ルークランは一枚のハンカチを差し出した。
白い布だった。隅に、銀糸の刺繍が入っている。
フィーナは少し迷ってから受け取った。
「……家族の夢を見てたんです。」
ぽつりと零す。
「そうか。」
「起きたら誰もいなくて。」
十五歳にもなって、自分でも子どもみたいだと思うと、少し恥ずかしかった。
けれどルークランは笑わず、ただ静かに聞いていた。
「寂しくなったのか。」
フィーナは小さく頷く。
その言葉に、ルークランは少しだけ目を伏せた。
「……すまない。」
「え?」
「以前、俺は家に帰りたくないと話した。」
夏休みが始まる前、社交界が煩わしい、夜会ばかりで面倒だと。そんな話をしていたことを思い出す。
「君の前で言うことではなかった。」
フィーナは首を横に振る。
「そんなことありません。」
「だが。」
「ルークランさんにはルークランさんの悩みがありますから。」
ルークランは少し驚いたように目を瞬き、それから何も言わなくなった。
静かな沈黙が落ちた。窓の外で、鳥が鳴いている。
フィーナはそこで、ふと思い出した。
――そういえば、あの時。ルークランさんが夏休みも学院に残ると聞いて、私はどう思ったんだっけ。
申し訳ない、と思った。
本当なら帰る予定があるのに、自分の課題に付き合わせてしまうのだと。
けれどその奥で、ほんの少しだけ、嬉しかった。
ルークランさんは家に帰らない。夏休みになっても、また会える。
そう思った自分の気持ちを、深くは考えなかった。
ずっと、ルークランさんが一緒にいてくれるのは、責任感が強い人だからだと思っていた。
課題のことも、魔力のことも、自分が関わった以上、放っておけないだけなのだと。
その優しさに安心して、気づけばずいぶん頼っていた。
でも――それだけだろうか。
フィーナは、手の中のハンカチをそっと握った。
もしかしたら。私の方も、ずっと一緒にいたかったのかもしれない。
図書館で向かいに座る時間が好きだった。
会えると嬉しくて、夕方に別れる時には少し寂しかった。
そんな気持ちを、いつのまにか当たり前だと思うようになっていた。
フィーナはそっと顔を上げた。
夕日に照らされたルークランの横顔が見える。鍋を覗き込みながら、真剣な顔で火加減を見ている。
その姿を見ただけで、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
でも、嫌じゃない。むしろ、あたたかい。
大切なものを抱きしめた時みたいに。
その瞬間、すとんと、何かが胸に落ちた。
――ああ。
私、ルークランさんのことが好きなんだ。
言葉になった途端、心臓が大きく跳ねた。
今まで当たり前だった時間が、一瞬で違う色を帯びる。
フィーナは思わずルークランを見つめた。
少し伸びた黒髪、長い睫毛、整った横顔。
いつも見ていたはずなのに、まともに見られない。
顔が熱くて、胸がうるさい。どうして今まで平気だったんだろう。
そんなことを思っていると、不意にルークランがこちらを向いた。
視線が合う。
フィーナの肩がぴくりと揺れた。
慌てて目を逸らそうとしたけれど、その前にルークランが小さく首を傾げる。
「どうした。」
低く穏やかな声。
「な、なんでもありません。」
自分でも分かるくらい不自然な返事だった。
ルークランは少しだけフィーナを見つめる。
泣いた後だからだろうか、まだ家族のことを考えていると思ったのかもしれない。
やがて、その目元がふっと和らいだ。
優しく、安心させるように――まるで、大丈夫だと言うように。
「そうか。」
柔らかな微笑みだった。
ほんの一瞬のことだったのに、フィーナには十分すぎた。どくん、と胸が鳴る。
駄目だ。そんな顔をしないでほしい。
好きだと気づいたばかりなのに、これ以上優しくされたら、もっと好きになってしまう。
フィーナは慌てて視線を落とした。
ルークランが鍋の蓋を開けると、湯気がふわりと立ち上った。
「もう少しでできる。」
「……はい。」
返事をした声は少し震えていた。
ルークランは気づかない。
フィーナだけが、自分の恋を知ったばかりの胸を抱えながら、握りしめたハンカチにそっと視線を落とした。




