第28話:残響のバイナリ、そしてエンジニアは旅立つ(中編)
大通公園の地下、かつて札幌を沈没から救い、そして和也が記憶を失うきっかけとなった「第零演算区画」。
再開発によって封鎖されていたはずのその場所は、今や禍々しい「論理の澱」で満たされていた。壁面には不気味な黒いノイズが走り、空間全体がまるで古いブラウン管テレビのように激しく上下に揺れている。
「……これが、世界の『最適化』から取り残された、人々の不安の総体か」
和也は、軋む膝を叩きながら奥へと進んだ。
中央の制御ユニットには、実体化した「漆黒の佐藤和也」とでも呼ぶべき存在が、無数のケーブルに繋がれたまま座っていた。それは和也が世界を救うために切り捨てた、彼の「恐怖」や「独占欲」、そして「神として君臨し続けたいという傲慢」が結晶化した、負のインスタンス(分身)だった。
『……クク……。戻ってきたか、本体。……一人の人間に戻る? 笑わせるな。……お前は、この万能の力を手放せるはずがない……』
黒い影が、和也と同じ声で嘲笑う。
影が指を鳴らすと、地下空間の重力が反転し、結衣や凪、怜奈たちが壁へと叩きつけられた。
「――っ、凪! 結衣!」
「……会長、お気になさらず……! この程度の質量変化、……私の重力刀で、……相殺してみせます!」
凪が歯を食いしばり、刀を抜こうとする。しかし、影が放つ「論理圧」は、物理的な力を超えていた。彼女たちの存在そのものが、影の言葉によって「不要なデータ」として定義され、少しずつ透明化し始めていたのだ。
『お前に味方はいない。……お前が人間になれば、この不確実な世界は再び崩壊する。……私を受け入れろ。……そうすれば、お前はこの世界の「永遠の王」でいられる……』
黒い影が手を伸ばす。その指先が和也の眉間に触れようとした瞬間――。
――バチッ!!
激しい閃光が走り、影の手が弾かれた。
和也のポケットに入れていた「壊れたスマホ」が、鈍い、しかし確かな黄金の光を放っていた。
「……悪いな。俺は王様ってガラじゃないんだ。……俺は、締め切りに追われて、バグに泣かされて……それでも、完成した時のコーヒーが美味いと感じる、……ただのエンジニアが好きなんだよ!!」
和也の脳内に、凄まじい衝撃が走った。
封印されていた最後の記憶――自分がなぜこの道を選んだのか、なぜムサシを創ったのか、その原風景が鮮やかに蘇る。
それは、小さな部屋でたった一人、誰かの笑顔のためにコードを書いていた、若き日の自分の姿だった。
「……思い出した。……俺の『管理者権限』は、誰かを支配するためのもんじゃない。……誰かの『明日』を守るために、使い切るためのもんだ!!」
和也の右目が、これまでで最も強く、澄んだ銀色に輝いた。
彼は壊れたスマホを握りしめ、そのまま自身の胸元へと突き立てた。
「マスター!? 何を……!」
ムサシが絶叫する。
だが、和也は笑っていた。
彼は、自分の中に残っている最後の「特異点のリソース」を、この地下遺構に巣食う負の澱みへと、一気に流し込もうとしていた。
「ムサシ、リンクしろ! ……これが最後の、……『一括デリート』だ!!」
「……っ、了解しました、マスター!! ……佐藤和也の全権限を、……概念的な爆弾へと変換。……実行!!」
和也とムサシが同時に虚空を叩く。
地下空間全体が、純白の光に飲み込まれた。
黒い影は、和也が取り戻した「人間としての決意」に焼かれ、断末魔の叫びを上げて霧散していく。
そして。
和也の視界から、すべての「デバッグ・ログ」が消えた。
空を流れるパケットも、物体の耐久値も、世界の裏側のソースコードも。
ただ、暗い地下室の中で、仲間たちの荒い息遣いだけが聞こえていた。
第28話:後編へ続く




