第28話:残響のバイナリ、そしてエンジニアは旅立つ(前編)
保全プロセスとの決戦から数日が過ぎた。
札幌の街は、奇跡的なまでの回復を遂げていた。灰色のマネキンのようだった人々は、自分たちが宇宙の消去対象になっていたことなど記憶の彼方に追いやられたかのように、再び賑やかな日常を謳歌している。
新銀河連邦本部の屋上。和也は、潮風を含んだ初夏の風に吹かれながら、手の中で沈黙を続ける「動かなくなったスマートフォン」を見つめていた。
画面は割れ、内部の回路は黄金の輝きを放った代償として炭化している。もはや一ビットの通信も、一文字のデバッグもできない。
「……お疲れ様。俺の、最高で最悪の武器」
和也が呟くと、背後から静かな足音が近づいてきた。
ムサシだ。彼女の銀色の髪は、かつての無機質な発光を失い、今は午後の柔らかな陽光を等身大の少女らしく反射させている。
「マスター。……いえ、和也様。……そのデバイスの物理的な機能は停止しましたが、貴方が書き換えた『未来のプロトコル』は、今もこの街の深層で動き続けています」
「ああ、分かってる。……でも、それが少しだけ怖いんだ。……俺という『バグ』がいなければ、この世界はもっと効率よく回るんじゃないかってな」
和也の言葉には、自虐的な響きではなく、どこか晴れやかな諦観が混じっていた。
彼は知っていた。自分が宇宙の根幹を書き換えた際、自分自身の「存在定義」が、あまりにも巨大なリソースとして世界に固着してしまったことを。彼は今、立っているだけで周囲の物理法則を微かに歪めてしまう、歩く特異点と化していた。
「……和也、やっぱりここにいた」
階段から、怜奈が姿を現した。彼女の腕には、和也がかつて愛用していた、泥にまみれた古い作業用ジャケットが抱えられていた。
「如月重工の全スタッフで調査したわ。……和也、あなたの身体に残っている『管理者権限』は、あと数日で完全に消失する。……そうすれば、あなたはもう二度と黄金の光を放つことも、宇宙の仕様を書き換えることもできなくなる。……ただの、不器用な一人のエンジニアに戻るのよ」
怜奈の瞳には、寂しさと、それ以上の深い安堵が宿っていた。
彼女は、世界の救世主としての和也ではなく、一緒にラーメンを食べて、一緒に悩んでくれる「佐藤和也」をずっと待ち続けていた。
「……ただの人間、か。……最高のご褒美だな」
和也は不敵に笑った。だが、その笑みの裏側で、彼の右目が一瞬だけノイズを発した。
管理者権限が消える。それは同時に、和也がこれまで「意志」だけで繋ぎ止めてきた、この世界の不確定なバランスが、再び宇宙の自律的な秩序に委ねられることを意味していた。
「和也くん、凪さん! 急いで!!」
結衣が、背負ったバックパック型の通信機から悲鳴のような声を上げた。
「……大通公園の地下、……かつて札幌を沈めた『あのポイント』で、……最後の一行が暴走してる! ……これは保全プロセスじゃない。……和也くんが世界を救った時に出た、……『幸福な未来』を拒絶する人々の思念が、……実体化しようとしてるんだ!!」
和也は、怜奈からジャケットをひったくるように受け取り、袖を通した。
壊れたスマホをポケットにねじ込み、彼はかつて何度も見せた、あの「戦うエンジニア」の顔に戻る。
「……最後のデバッグだな。……凪、結衣、怜奈。……そしてムサシ。……俺の『人間卒業式』に、付き合ってくれるか?」
「……御意。……会長の最後のご奉公、……死力を尽くして守護いたします」
凪が重力刀を抜き放ち、その冷徹な刃に決意を映した。
一行は、夕闇が迫る札幌の街へと駆け出した。
それは、世界を救うためではなく、自分たちの「当たり前な明日」を確定させるための、最後の戦いだった。




