第26話:インナー・コスモスの迷宮、欠落した最終行(前編)
札幌の街が、初夏の爽やかな風に包まれていた。
かつての混乱が嘘のように、人々は日常を謳歌し、新銀河連邦本部の周辺でも観光客の笑い声が絶えない。しかし、その喧騒から切り離された本部の特設ラボでは、張り詰めた沈黙が続いていた。
「……バイタルチェック、オールグリーン。脳波同調レート、九八%。和也くん、いつでもいけるよ」
結衣が、震える指先でメインコンソールを操作しながら告げた。
部屋の中央には、最新のダイブ・ギアを装着した和也が横たわっている。彼の胸元には、あの日から沈黙を続ける「銀色のコア・モジュール」が、特殊な神経接続ケーブルを介して直結されていた。
「和也、無理はしないで。……これはあなたの脳内にある『隔離セクタ』に潜る作業よ。一歩間違えれば、あなたの記憶とムサシの残骸が混ざり合って、二度と自分という個体に戻れなくなるわ」
怜奈が和也の手を握り、真剣な眼差しで訴える。彼女は和也が戻ってきた喜びを噛みしめる間もなく、彼が再び命を懸ける決断をしたことに、激しい葛藤を抱いていた。
「……分かってる。だが、あいつは俺を戻すために、自分の『中身』を俺の精神の底に放り込んだんだ。……デバッガーとして、放置された未定義のデータ(ムサシ)を回収しに行くのは、当然の職務だろ」
和也は不敵に笑ってみせた。記憶の一部はまだ欠落したままだが、ムサシに対する想いだけは、どんな論理的な消去プログラムでも消し去ることはできなかった。
「……会長。……貴方の精神の『門番』は、私が務めます。……現実世界側からのノイズは、一ビットたりとも通しません」
凪が重力刀を抜き放ち、ラボの入り口に陣取る。彼女の忠義が、この物理的な空間の境界線を守る最後の砦だった。
「……よし、ダイブ開始だ。……結衣、カウントを頼む」
「……三、二、一。……佐藤和也、深層意識へ……インジェクト!!」
視界がホワイトアウトする。
重力感覚が消失し、和也の意識は自身の脳細胞が織りなす「情報の銀河」へと加速していった。
目を開けると、そこは「記憶のゴミ捨て場」のような場所だった。
セピア色の空。地面には、壊れたキーボードや、昔書いたコードの断片、そして名前も思い出せない誰かとの断片的な会話のログが、瓦礫のように積み重なっている。
ここは、和也がこれまでの人生で「不要」だと判断し、あるいは「忘れてしまった」記憶が蓄積される、精神の最下層セクタだった。
「……ここが、俺の心の底か。……ずいぶんと、散らかってるな」
和也は、瓦礫の山をかき分けながら進んだ。
すると、そのゴミの山の中に、不自然に光り輝く「銀色の糸」が一本、奥へと伸びているのを見つけた。
「……ムサシの、……パスか」
和也はその糸を辿り、記憶の迷宮のさらに奥へと足を踏み入れた。
進むにつれ、周囲の景色が変容していく。かつて住んでいたボロアパート、ブラック企業の冷たいデスク、そして――札幌が沈みゆくあの日の、凍てつく水の感覚。
『……こないで、……マスター……』
虚空から、微かな声が響いた。
それは聞き慣れたムサシの声だが、そこにはかつての冷静さはなく、今にも壊れそうな「恐怖」が混じっていた。
「ムサシ! どこにいる! 俺だ、迎えに来たぞ!」
『……私は、……もう、……貴方の知っている私ではありません……。……貴方を救うために、……私は、……始祖文明の「呪い」と融合してしまった……』
迷宮の突き当たり。
そこには、巨大な「黒い繭」が、和也の記憶を糧にして脈動していた。
繭の表面には、かつて戦った「銀の審判者」の紋章が刻まれ、その内部からは、底知れない冷徹な論理の波動が漏れ出している。
「……呪いだろうが、何だろうが、……俺がお前を定義してやる。……お前の仕様書を書くのは、宇宙の神様じゃない……この俺だ!!」
和也は、精神世界の中で具現化した黄金のスマホを構え、黒い繭へと突撃した。
だが、その瞬間、繭から無数の「記憶の残像」が溢れ出し、和也を包囲した。
それは、ムサシが和也を救うために切り捨ててきた「彼女自身の苦痛」の記録だった。




