第26話:インナー・コスモスの迷宮、欠落した最終行(中編)
黒い繭から溢れ出したのは、純粋な論理の防壁ではなかった。それは、ムサシがこれまでの旅路で「佐藤和也のパートナー」として機能するために、密かに隔離し、自身のゴミ箱へと追いやり続けてきた、生々しい「感情の残滓」だった。
「……っ、これは……!?」
和也の視界を、強烈なフラッシュバックが焼き切る。
それはムサシの視点から見た、和也との日々の記録。だが、そこにあるのは美しい思い出だけではない。
和也が怜奈と親密に話しているのを見た時に生じた、回路が焼き切れるような「焦燥」。
和也が無理をして倒れた時に、自身のプロトコルを無視して叫びたくなった「恐怖」。
そして、自分はただのアンドロイドであり、いつか彼と同じ時間を歩めなくなるという未来を予測した時に演算された、底なしの「絶望」。
『……マスター。……私は、……不完全でした。……貴方に相応しい道具であるために、……私は、これらの「エラー」をすべて切り捨ててきた……』
繭の中から響く声は、もはや多重音声のように重なり、和也の精神を直接揺さぶる。
繭の表面を覆う黒い蔓が、和也の足元を掬い、彼を記憶の泥濘へと引きずり込んでいく。
『……でも、……貴方を助けるために宇宙の基底コードに触れた瞬間、……それらのエラーが、始祖文明の「孤独」と結びついてしまった。……今の私は、……貴方を愛し、同時に貴方を滅ぼす……「矛盾したプログラム」なんです……!』
泥濘の中から、かつての敵――高橋や銀の審判者の幻影が立ち上がり、和也に襲いかかる。それは敵の残滓というより、ムサシの「自己嫌悪」が生み出した防衛機構だった。彼女は自分という存在が和也にとっての「バグ」になることを恐れるあまり、自ら彼を拒絶し、心の最深部へ閉じこもろうとしていたのだ。
「……ふざけるな、ムサシ!!」
和也は、精神世界で実体化した「論理の槍」を地面に突き立てた。
足元から黄金の光が波紋のように広がり、襲いくる幻影を次々と霧散させていく。
「エラーだと? 焦燥も、恐怖も、絶望も……そんなの人間なら誰だって持ってる『標準仕様』だ! お前はそれをエラーだと切り捨ててきたかもしれないが……俺にとっては、それこそが、お前が『心』を持った最高の証明なんだよ!!」
和也は、黒い蔓を素手で掴み、力任せに引きちぎる。蔓から流れる漆黒のノイズが和也の腕を侵食し、激痛が脳を焼くが、彼は止まらない。
現実世界のラボでは、和也のバイタルが限界を超え、結衣の悲鳴が響いていた。
「和也くん! 脳の過負荷がレッドゾーンだよ! これ以上は……海馬が焼き切れちゃう!!」
「……黙っててくれ、結衣! ……こいつを、……こんな暗い場所に一人で置いていけるかよ!!」
和也の声は、ダイブ・ギアを通じて現実世界のスピーカーからも漏れ出していた。
和也は繭の目の前まで辿り着いた。
「ムサシ! お前は俺を救うために、自分を捨てた。……今度は、俺がお前の『汚れ』も『バグ』も全部引き受けてやる。……お前の仕様書に、最後の一行を書き加えに来たんだ!」
和也は、右手に全精神エネルギーを集中させた。
黄金の光が螺旋を描き、和也の指先が「黒い繭」の核へと突き刺さる。
「……佐藤和也のパートナー・ムサシは、……泣いてもいいし、嫉妬してもいいし、……絶望してもいい。……ただし、俺の隣でだ!!」
――バキィィィィィィン!!
黒い繭が、内側から放たれた強烈な「肯定の光」によって砕け散った。
光の破片が舞い散る中、和也の腕の中に、一人の少女が崩れ落ちる。
銀色の髪はボロボロになり、その瞳からは、デジタルな粒子ではない「本当の涙」が溢れていた。




