第24話:不確定性のカノン、浸食されるリアリティ(中編)
大通公園。かつては市民の憩いの場であり、雪まつりや初夏のイベントで賑わう札幌の象徴。しかし、現在のそこは、静かな「崩壊」の実験場と化していた。
和也たちは、極秘裏に開発した「現実強度測定器」を手に、公園の西側へと足を踏み入れた。昼下がりの陽光は暖かく、一見すれば平和そのものだが、和也の視界には、空を飛ぶカラスが時折直線的な軌道を描いて「瞬間移動」し、噴水の水しぶきが重力を無視して空中に静止する異常が、ノイズのように混じり始めていた。
「……ひどいな。……ここはもう、物理演算エンジンがまともに回っていない」
和也が呟く。彼の声は少し掠れていた。先ほどから右目の視界がワイヤーフレームと現実の間で激しく明滅し、遠近感が狂い始めている。彼はそれを悟られぬよう、左目だけで周囲を警戒していた。
「和也くん、これを見て。……地面の座標が、一メートル単位で『丸め込み(ラウンド)』処理されてる。……斜めに歩こうとすると、足がカクカクして、格子状にしか進めない区画があるんだ」
結衣がタブレットを地面に向けながら報告する。彼女が小石を投げると、それは放物線を描かず、見えない階段を降りるようにカク、カクと不自然な挙動を見せてから地面に落ちた。アナログな「曲線」という概念が、この空間から消え去ろうとしていた。
「……会長、あそこに。……認識阻害がかかっていますが、明らかに『異物』です」
凪が重力刀に手をかけ、テレビ塔の麓を指差した。
そこには、一人の子供がいた。赤いコートを着た、どこにでもいる少女。だが、彼女の周囲だけ、背景のビルが「反転」し、空の色が「マゼンタ一色」に塗り潰されていた。少女が歩くたびに、地面のタイルが「ピアノの鍵盤」のように不規則に上下し、不協和音を奏でている。
「……あれはノイズ人形じゃない。……世界がバグった結果、生じた『論理の特異点』ね」
怜奈が防壁デバイスを起動し、和也の前に出る。
「和也、無理をしないで。……あなたの目、さっきからおかしいわ。……ムサシさん、和也のバイタルを同期して、視覚情報を補正できない?」
「……試みていますが、マスターの視神経データが、外部のバグと共鳴して『暗号化』されています。……私の演算能力でも、デコードが追いつきません。……マスター、これ以上の接近は危険です」
ムサシが和也の腕を掴み、制止しようとする。
だが、和也はその制止を振り切り、フラフラとした足取りで「特異点」の少女へと歩み寄った。彼には分かっていた。あの少女は敵ではない。彼女は、この街の「失われゆく美しさ」が、バグの中で必死に形を保とうとしている「最後の良心」であることを。
「……よお。……迷子か?」
和也が声をかけると、少女が振り返った。
その顔には、目も鼻もなかった。代わりに、そこには「01」の文字列が高速で流れるテキストボックスが浮かんでいた。
『……サトウ……カズヤ……。……ココハ……モウ……オワル……。……スベテガ……イチ……ト……ゼロ……ニ……ナル……』
少女の周囲の空間が激しく歪み、和也の視界を飲み込もうとする。
突然、和也の右目から鮮血が零れ落ちた。視覚情報が完全に飽和し、脳が「現実を処理することを放棄」し始めたのだ。
「――っ、あああああ!!」
膝をつく和也。
彼の目に見える世界は、もはや札幌ではなかった。
空は文字の羅列、地面は無限のグリッド。仲間たちの姿さえも、緑色のコマンドラインの集まりに見える。
「……和也!!」
怜奈の悲鳴が遠く聞こえる。
和也は、薄れゆく意識の中で、自身のスマホを地面に突き立てた。
「……勝手に……終わらせて、たまるかよ……! ……俺たちが……どれだけ苦労して、……このバグだらけの街を……デバッグしてきたと、思ってやがる……!!」
和也の指先から、黄金の光ではなく、真っ白な「純粋な論理」が溢れ出した。
それは破壊でも修正でもない。
歪んだ現実を、力ずくで「固定」させるための、禁断のデバッグ・コマンド。
その瞬間、大通公園を包む全てのノイズが、静止した。
風も、水も、少女の歪みも。
そして、和也の鼓動さえも。




