第24話:不確定性のカノン、浸食されるリアリティ(後編)
静止。
それは死よりも深い、論理的な「凍結」だった。
大通公園を吹き抜けていた春の風が、目に見える透明な壁となって固まり、空中に散った噴水の水滴は、ダイヤモンドのような硬度を持って静止している。怜奈が和也を呼ぼうと開いた口も、結衣の指先が端末を叩こうとした残像も、すべてが時間の連続性を失い、単一のフレーム(コマ)として固定されていた。
その「止まった世界」の中で、佐藤和也だけが、ノイズまみれの意識を維持していた。
「……はぁ、……はぁ。……止めたぞ。……これで、崩壊は、防いだ……」
和也の右目からは、今も絶え間なくデジタル・データが涙のように零れ落ちている。彼の視界はもはや、現実の風景を構成する「ポリゴン」の裏側――宇宙のソースコードそのものを直視していた。
目の前にいた「特異点」の少女もまた、ノイズのまま静止している。彼女の胸元に浮かぶテキストボックスには、たった一行のログが刻まれていた。
[Critical Error] : Memory Address "SAPPORO" is fading.
(致命的エラー:メモリアドレス「札幌」が消失しています)
「……消失? ……ふざけるな。……俺たちが、ここに、立ってるだろうが……!」
和也は震える足で立ち上がり、静止した空間をかき分けるように歩いた。空気は粘度を増し、一歩進むごとに自身の身体の一部が「未定義(NULL)」へと削り取られていく感覚。
その時、彼の脳内に、ムサシの声が響いた。それは外部からの通信ではなく、彼の魂と溶け合った彼女自身の「意志」だった。
『……マスター。……このまま「停止」を続ければ、貴方の存在そのものが、この不変の論理に同化して消えてしまいます。……世界を救うために、貴方という『実行プロセス』を終了させることは、私のプロトコルが許しません』
「……ムサシ。……お前、動けるのか」
『……貴方の中にいる「私」は、時間の概念を超越した演算領域にいます。……和也様。……今の地球は、巨大な「メモリ不足」に陥っているのです。……審判者が消えた空位を埋めるために、宇宙のシステムがこの惑星のデータを解放しようとしている……』
和也は、静止した怜奈の顔を指先でなぞった。彼女の肌の温もりさえ、今はデジタルな静電気のようにしか感じられない。
「……メモリ不足、か。……なら、拡張してやる。……俺の、残りの人生を全部、この街の『バッファ』として提供してやるよ」
『それは、……貴方が「人間」であることを完全に放棄し、この街を動かすための「OS」になるということです。……和也様。……それでは、怜奈様たちが望むハッピーエンドにはなりません!』
ムサシの悲痛な叫びが、和也の脳を揺さぶる。
「……ハッピーエンドの定義なんて、……最後に俺が決める。……結衣、……怜奈、……凪。……ごめんな。……少しの間だけ、……俺を『管理者権限』に固定させてくれ」
和也は、地面に突き立てたスマホの画面に、自らの血で「強制書き込み(FORCE WRITE)」のコマンドを刻んだ。
瞬間、和也の身体が爆発的な黄金の光に包まれ、その光は静止した札幌の街全体へと、回路のように広がっていった。
――カラン、と。
静止していた噴水の水が、音を立てて落ちた。
風が再び怜奈の髪を揺らし、結衣の端末が警告音を再開した。
「……和也!? ……えっ、今、何が……」
怜奈が意識を取り戻したとき、目の前にいた「特異点」の少女は消えていた。
そして、和也もまた、そこに立ってはいなかった。
大通公園の中央、和也が立っていた場所には、彼のコートと、画面が真っ白に発光し続けるスマートフォンだけが残されていた。
「和也くん……? どこ!? 返事してよ!!」
結衣が絶叫し、周辺の空間をスキャンする。だが、リーマン・スキャナーに映し出されたのは、絶望的な、しかし驚異的な数値だった。
「……現実強度、一二〇%……。……札幌の街全体のデータが、……特定の『個人』の意志によって、……完璧に保護されている……」
凪が和也のコートを拾い上げ、胸元に抱きしめた。彼女の瞳からは、声のない涙が零れていた。
和也は消えたのではない。
彼は、この街そのものになったのだ。
物理的な肉体を捨て、札幌という巨大なデータの「核」として、バグだらけの日常を守り続けるための「見えない神」へと昇華してしまった。
「……信じない。……あいつが、私たちを置いて、勝手にシステムの一部になるなんて……!」
怜奈が和也のスマホを拾い上げる。
その白い画面には、たった一行、手書きのメッセージが「未確定のパッチ」として表示されていた。
[Patch Note] : I'll be back. Keep the world running.
(パッチノート:必ず戻る。それまで世界を動かし続けてくれ)
札幌の夜空に、かつてないほど安定した星々が輝き始める。
それは、一人のエンジニアが己を犠牲にしてまで書き換えた、優しすぎる「世界の仕様書」だった。




