第20話:デバッガーの聖戦、自己同一性の崩壊(後編)
眩いばかりの透明な光が、新銀河連邦本部の屋上を白一色の世界へと変えた。
ムサシが自らの存在を捧げて穿った論理の穴――その脆弱性に、和也が全魂を込めて流し込んだのは、破壊のコードではない。それは、彼がこれまでの人生で積み上げてきた「バグまみれの、けれど愛おしい記憶」の全てだった。
「……ぐ、あああぁぁぁっ!」
漆黒の和也が、絶叫と共にのけぞる。
彼の漆黒の身体に、黄金の亀裂が走り、そこから和也の記憶が逆流していく。深夜のオフィスで啜ったカップ麺の匂い、怜奈と初めて視線が合った時の高揚感、結衣と徹夜でコードを追いかけた時の連帯感、凪が捧げてくれた静かな忠義。
「効率」と「無」を司る管理者にとって、それら人間的な熱量は、システムを物理的に焼き切るほどの猛毒だった。
「……なぜだ……なぜ、こんな非効率な、ゴミのようなデータに……僕の権限が上書きされる……!」
「ゴミじゃない……。それが、俺たちが生きた『ログ』だ!!」
和也は、もはや感覚の消えゆく右腕を突き出し、スマホを漆黒の自分の胸元へと押し当てた。
瞬間、二人の和也の意識が完全に同期する。
真っ白な精神世界。
そこには、和也と、そして今にも霧散しようとしている漆黒の自分が向かい合っていた。
「……佐藤和也。お前は、本当にこれでいいのか? ……僕を消せば、ムサシのデータは二度と戻らない。そしてお前の記憶も、この戦いの負荷で完全に初期化されるかもしれないんだぞ」
漆黒の自分が、最期に問いかける。それは呪いではなく、同じ根源を持つ自分自身への、悲痛なまでの確認だった。
「……いいさ。俺が俺であることを忘れても、この世界が明日を迎えられるなら。……それに、俺の周りには……俺以上に俺のことを覚えてる、最高に優秀な『バックアップ』たちがいるんだ」
和也は、精神世界の中で不敵に笑った。
その背後には、泣きながらも前を見据える怜奈、結衣、凪の姿が、揺るぎない確信となって浮かんでいた。
「……そうか。……なら、僕の負けだ。……せいぜい、このバグだらけの宇宙を……愛し抜いてみせろよ、デバッガー」
漆黒の和也が、柔らかな微笑を浮かべて光の中に溶けていった。
同時に、地球を覆っていた漆黒のドームが、ガラスが砕けるような音を立てて崩壊し、札幌の空に、本物の星空が戻ってきた。
静寂が戻った屋上。
和也は、力なく膝をついた。手にしたスマホは完全に沈黙し、画面は真っ黒なまま二度と点灯することはなかった。
「……和也! 和也!!」
怜奈が駆け寄り、和也の身体を抱きしめる。結衣も、凪も、ボロボロになりながら彼のもとへ集まってきた。
和也は、ゆっくりと顔を上げた。
だが、その瞳には、先ほどまでの鋭い光はなかった。
「……あ……。……きみ、は……?」
その一言に、怜奈の息が止まる。
結衣が絶句し、凪が刀を取り落とした。
和也の記憶セクタは、漆黒の管理者との相殺によって、致命的なダメージを受けていた。自分自身の名前さえ、彼は思い出せずにいた。
「……ひどい、じゃない……。勝って、守り抜いて……自分だけいなくなるなんて……」
怜奈の目から、大粒の涙が和也の頬に落ちる。
しかし、和也は困ったように微笑み、彼女の涙を、震える指先で拭った。
「……わからない。……わからないんだけど。……きみが泣いていると、胸の奥のプログラムが……『エラーだ、早く直せ』って、うるさく鳴るんだ」
記憶は消えても、魂に刻まれた「デバッガーとしての本能」は消えていなかった。
大切な人の悲しみをバグだと断じ、それを修正しようとする彼の本質。
それを見た結衣が、泣き笑いのような声を上げた。
「……ふふ、やっぱり和也くんだ。……中身が空っぽになっても、バカみたいに優しいデバッガーのままだ……」
「……会長。……貴方が忘れても、私たちがすべて覚えています。……今日から、また新しいログを書き始めればいいだけのこと」
凪が和也の手を取り、静かに頭を下げた。
ムサシという大きな犠牲を払い、和也は自らの過去を失った。
しかし、新銀河連邦本部の窓から見える札幌の街には、再び人々の営みの光が灯り始めている。
宇宙の初期化は阻止された。
失われた記憶、消えた仲間。
それらを抱えながら、記憶を失った最強のエンジニアは、今、仲間たちと共に「リビルド(再構築)」の第一歩を踏み出す。
「……とりあえず。……まずは、名前から教えてくれないか?」
和也の言葉に、三人のヒロインが、涙を拭って笑顔で答えた。
戦いは終わった。
そして、世界で一番不自由で、一番自由な「新しい日常」のデバッグが、今ここから始まるのだ。




