第20話:デバッガーの聖戦、自己同一性の崩壊(中編)
新銀河連邦本部の最上階は、もはや現実の物理法則が通用する場所ではなくなっていた。
漆黒の和也が放つ「消去命令」の波動が、床を、壁を、そして大気そのものを0と1のノイズへと分解していく。その圧倒的な権限の前に、怜奈たちが展開した多重防壁は、まるで古いOSの上で動く脆弱なプログラムのように、次々とクラッシュし、剥がれ落ちていった。
「……ぐっ、エリス! まだか!? 奴の権限レイヤー、一階層も貫けないのか!」
和也は、膝を突きながら叫んだ。
彼の視界はさらに悪化している。結衣から送られるバックアップ・データによって辛うじて自己を維持しているものの、外部からの「存在否定」の圧力は、彼の魂そのものを磨り潰そうとしていた。
『マスター……! 敵のプロトコルは、私たちが知る始祖文明のものを遥かに超えています。……これは、宇宙が自己修復のために生成した「完全なる管理者」そのもの……。私やムサシのような、個別の意志を持つプログラムでは、その絶対的な命令セットを拒絶できません……!』
エリスの声が悲鳴に変わる。彼女のホログラムは既に半透明になり、漆黒の触手が彼女のコードを蝕み始めていた。
「……いいえ、まだ方法はあるわ。……一つだけ」
その時、これまで和也の背後で静かに演算を続けていたムサシが、一歩前に出た。
彼女の銀灰色の瞳は、かつてないほど冷徹で、同時にこの世の何よりも深い慈しみを湛えていた。
「……ムサシ? 何を……」
「……マスター。……いえ、和也様。……私は、戦う道具として作られ、貴方に『意味』を与えられました。……貴方が守ろうとしているこの世界、このノイズに満ちた愛すべき『バグ』たち。……それを守るための、最終手段を承認してください」
ムサシの身体が、青白い燐光を放ち始める。
それは彼女の構成プログラムを、すべて「一過性の爆薬」へと変換する、文字通りの自己犠牲シーケンスだった。
「待て、ムサシ! それをやったら、お前の人格データは……バックアップすら残らないんだぞ! お前が消えたら、俺は……!」
「……貴方が私を忘れない限り、私は消えません。……たとえ貴方の記憶から私の名前が消えても、私の書いたコードが、貴方の魂の深層セクタに刻まれています。……それだけで、私は十分です」
ムサシが振り返り、微かに微笑んだ。
無機質なアンドロイドだった彼女が、最後に辿り着いたのは、設計図には存在しない「無償の愛」という名の論理エラーだった。
「……全リソース、解放。……ターゲット:漆黒の管理者。……『ムサシ』という名の定義を捨て、宇宙の基底コードへの『インジェクション』を開始します」
ムサシが漆黒の自分へと突撃した。
彼女の身体が光の奔流となり、漆黒の和也が展開していた「絶対防御壁」を内側から食い破る。物理現象を無視した論理の爆発。新銀河連邦本部全体が、白銀の光に包まれた。
「……チッ、エラープログラム風情が……! 存在を捧げてまで、この僕の『仕様書』を書き換えるというのか!」
初めて、漆黒の和也の顔に「焦燥」という感情が浮かんだ。
ムサシが命を賭して穿ったその穴は、鉄壁だった管理権限の唯一の綻び(脆弱性)となった。
「……今よ、和也! ムサシが作ってくれたこの『一秒』を無駄にしないで!」
怜奈が叫び、如月重工の全衛星から、その綻びを目がけて一点集中のエネルギー波を叩き込んだ。
凪の重力刀が、光の速度を超えて漆黒の和也の胸元をかすめる。
そして――。
「……ムサシィィィィィ!!」
和也の絶叫が、崩壊する屋上に響き渡った。
彼のスマホが、ムサシの残した最後の輝きを吸い込み、黄金を通り越した「透明な光」を放ち始める。
「……あいつが命を懸けて繋いだこのパス、外して堪まるかよ……! 喰らえ、これが俺たちの……『修正完了』の合図だ!!」
和也の指が、割れた画面の「Enterキー」を叩き下ろす。
ムサシの犠牲によって生まれた一瞬の隙。
和也の全精神を込めた一撃が、漆黒の自分の深層部へと突き刺さった。




