第20話:デバッガーの聖戦、自己同一性の崩壊(前編)
新銀河連邦本部、屋上庭園。
かつては札幌の街を一望でき、和也たちが束の間の安らぎを得ていたその場所は、今や赤黒い論理の火花が飛び交う「現実の断層」へと変貌していた。
「……ふん、それがお前の答えか。佐藤和也」
漆黒の和也が、感情の欠落した声で呟く。彼が手にするノイズ塗れのスマホから放たれるのは、物理的な衝撃波ではない。周囲の空気を、物質の最小単位である「素粒子」から「無意味な文字列」へと分解し、再構築する――世界そのものを書き換える権限の波動だった。
「……会長、下がって! ここは、物理的な理屈が通じる場所ではありません!」
凪が叫び、重力刀を抜き放つ。彼女の周囲には、ムサシが展開した「多重論理防壁」が展開されているが、漆黒の和也が指を一振りするだけで、その絶対的な盾に亀裂が入る。
「……凪、無茶だ! そいつは……そいつは俺が切り捨てた『効率』と『虚無』の塊だ。お前の忠義さえ、データ上のエラーとして処理されちまう!」
和也は、激しい頭痛に耐えながらスマホを構えた。
視界は未だに霞み、脳の記憶セクタからは、大切な思い出が砂のように零れ落ち続けている。先ほどまで鮮明だった「初めて札幌で怜奈に出会った時の光景」が、今やセピア色のノイズに塗り潰され、呼び出すことすら困難になっていた。
「……佐藤和也。お前は憐れだな。……愛する者を守るために、愛した記憶を捧げ、最後には殻だけが残る。……そんな不完全な個体に、この地球を管理する資格はない」
漆黒の和也が、一歩を踏み出す。
その足跡から、本部の床が黒い液体のように溶け出し、無数の「未定義」な触手となって和也たちに襲いかかる。
「……和也くんの記憶を……返してよ!!」
結衣が、涙を流しながら叫んだ。彼女はボロボロの端末を抱え、自身の全神経を仮想空間へと直結させていた。
「……私の演算能力を全部あげる! 和也くんが忘れても、私が……私のサーバーに全部、君の生きた証をコピーしてあるんだから! だから、負けないで!」
結衣の端末から、眩いばかりの青い光が放たれ、漆黒の触手と衝突した。
それは彼女が和也と共に過ごした、膨大な「ログ」の輝きだった。和也が書いた一行のコード、一緒に食べたジンギスカンの味、深夜まで続いたデバッグ作業の愚痴。結衣は、それらすべてを「削除不能」なアーカイブとして保持し、漆黒の虚無に対する唯一の対抗手段として、和也に供給していたのだ。
「……結衣……。……すまねえ、助かる」
和也のスマホに、結衣から送られた「バックアップ・パケット」が充填されていく。
消えかけていた記憶の火が、再び和也の瞳に宿った。
「……怜奈、本部メインサーバーの『物理ロック』を解除しろ! エリス、ムサシ! 奴の権限を、外部から強制的に奪い取る(ジャックする)ぞ! 管理者が二人いるなら、より『泥臭い』方が勝つってところを見せてやる!」
「……了解よ、和也! 如月重工の全衛星、札幌直上に固定! 物理レイヤーからの強制介入、開始するわ!!」
怜奈が天に向かって叫ぶ。
上空の雲を割り、数千の通信衛星からのレーザーが新銀河連邦本部へと収束した。
物理(怜奈)、論理(結衣)、武力(凪)、そして演算。
和也を支える全ての「力」が一つに重なり、漆黒の自分という名の絶望へと叩きつけられる。
「……無駄なことを。……システムは、不純物を排除する。……これが宇宙の決定だ」
漆黒の和也がスマホを掲げた瞬間、新銀河連邦本部の建物全体が、巨大な「消去プログラム」の実行キーへと変わった。




