第19話:帰還のプロトコル、綻びゆく青き星(前編)
静寂が、ヤマト・ムサシの艦橋を支配していた。
事象の地平線の彼方から生還した巨艦は、今、月を越え、その美しい「青」を眼下に見下ろす位置まで戻ってきていた。しかし、誰もがその絶景を素直に喜ぶことはできなかった。
「……各セクション、被害状況を報告しろ」
佐藤和也の声は、砂を噛んだように掠れていた。
彼の右手にあるスマホは、過負荷の影響で液晶が蜘蛛の巣状に割れ、そこから漏れ出す微かな論理の火花が、彼の指先を静かに焦がしている。和也は椅子に深く腰掛け、襲いかかる激しい眩暈を、冷や汗を拭うことで誤魔化していた。
『……マスター。メインフレームの損耗率、四二%。……特に和也様の精神と直結していた論理装甲セクターが、再構築不能なレベルで磨耗しています。……今の貴方に必要なのは、戦果の確認ではなく、強制的な「再起動(休息)」です』
実体化したエリスが、透明に近い手で和也の頬に触れた。彼女のホログラムもまた、極限の演算の代償としてノイズが走り、時折その輪郭が透けて消えそうになっている。
「わかってる、エリス。……だが、まだ終われない。……この違和感、お前も感じてるだろ?」
和也がモニターを指さした。
そこには、一見すれば平和な地球の姿が映っている。しかし、和也のエンジニアとしての直感、そして脳を焼き切ってまで手に入れた「高次アクセス権限」が、その景色の中に潜む致命的なバグを捉えていた。
「……地球のテクスチャが、揺らいでいる? ……いいえ、違うわ。これは『レンダリング・エラー』じゃない。……現実そのものの『整合性』が取れていないんだわ」
結衣が、震える指先でコンソールを拡大表示した。
本来、一定の周期で変動するはずの大気の磁気嵐や、始祖文明のエネルギーラインが、まるで「停止した時計」のように不自然に固定されている場所が、世界中に点在しているのだ。
「……虚無の門を強引に閉じた副作用ね。……和也さん、私たちは宇宙を救ったつもりだったけれど、その衝撃で地球の『OS』そのものにクラックが入ってしまったのかもしれないわ」
怜奈が、和也の隣で沈痛な面持ちで呟いた。彼女は如月重工の全通信衛星を介し、地上の状況をリアルタイムで精査していた。
「……札幌の、新銀河連邦本部からの信号が途絶えています。……いえ、信号はあるのですが、プロトコルが『未定義』に書き換わっています。……まるで、誰かが私たちの留守の間に、本部の管理者権限を奪い取ったかのように」
ムサシの報告が、艦橋に凍りつくような緊張を走らせた。
高橋という個体は消滅したはずだ。だが、彼が外宇宙から呼び込んだ「ロスト・バイナリ」という名のシステムは、既に地球というハードウェアの深層部まで、根を張っていたのだ。
「……凱旋パレードってわけにはいかないらしいな」
和也は、軋む体に鞭を打って立ち上がった。
膝が笑い、視界が二重に重なる。そんな彼を、背後から無言で支えたのは凪だった。
「……会長。……お任せください。……地上を汚す賊は、この刃がすべて排除します。……貴方はただ、その『道』を示してくだされば」
凪の重力刀が、鞘の中で低く唸りを上げる。彼女の身体もまた、先ほどの殿としての激闘でボロボロのはずだった。しかし、その瞳に宿る「会長を守る」という唯一の命令セットは、疲労という名のバグを力ずくでねじ伏せていた。
「……サンキュ、凪。……よし、全員。……これより、地球圏への『強行パッチ適用』を開始する。ターゲットは札幌、新銀河連邦本部。……俺たちの家を、勝手に書き換えた不法侵入者を……叩き出すぞ」
ヤマト・ムサシが、青き星に向けて艦首を翻した。
大気圏突入の摩擦熱が艦体を赤く染めていく。
それは帰還の光ではなく、新たな戦端を開く、宣戦布告の炎だった。




