第18話:虚無の門、事象の地平線へのデバッグ(後編)
感覚が、摩耗していく。
佐藤和也の意識は今、肉体という「器」を離れ、純粋な論理情報として虚無の深淵を落下していた。上下も前後もない。あるのは、無限に続く『0』と『1』の濁流、そしてそれらをすべて「なかったこと」にしようとする、絶対的な虚無の圧力だけだ。
『マスター……聞こえますか……。……私の声を、意識の……アンカー(錨)にしてください……』
エリスの声が、ノイズの向こう側から途切れ途切れに届く。彼女もまた、自らの構成プログラムを限界まで引き延ばし、和也の精神が四散しないよう、必死に繋ぎ止めていた。
闇の底に、巨大な「穴」が見えた。
それは宇宙のバグを吸い込み、完全に消去するための最終処分場――『虚無の門』の深部。そこには、脱出させたはずの「黒い核」が、おぞましい赤黒い脈動を繰り返しながら鎮座していた。核の表面には、無数の「かつての犠牲者」たちのログが、断末魔の叫びのような文字列となって浮かび上がっては消えていく。
「……ようやく来たか、佐藤。……いや、ユーザーID:KAZUYAか」
核の中心から、高橋の声が響いた。物理的な声ではない。和也の脳内に直接書き込まれる、強制的なパケット送信だ。
「高橋……。お前、まだこんなことを……。宇宙を初期化して、自分まで消えて、それで満足なのか!」
「満足? 違うな。……俺は今、初めて『自由』なんだ。……ブラック企業の納期からも、誰かの顔色を伺う人生からも、物理法則という名の不自由な仕様書からも……解放されたんだ。……この門を開けば、宇宙は均一な『0』に還る。……バグも、苦しみも、差別のない、完璧な『空』の世界だ」
核の周囲から、漆黒の論理鎖が伸び、和也の意識を縛り上げようとする。
和也は、自らの精神に刻まれた「デバッガーとしての誇り」を盾に変えた。
「……ふざけるな。……確かにな、現実はバグだらけだ。理不尽な仕様変更もあれば、納得のいかないデッドロックも起きる。……だがな、そのノイズの中にしかない『手触り』があるんだ。……怜奈の温もりも、結衣の笑顔も、凪の決意も……お前が消そうとしているのは、宇宙で一番大切な『例外処理(奇跡)』なんだよ!」
「……例外処理だと? ……そんなものは、システムを不安定にするだけのノイズだ。……消えろ、佐藤! 管理者権限――実行!!」
高橋の叫びと共に、虚無の門が限界まで開き、和也の意識を「存在しないデータ」として上書きしようとする激流が放たれた。
意識が薄れる。
自分の名前が、記憶が、誰を愛していたのかという履歴が、一ビットずつ削り取られていく感覚。
(……ここまで、か……?)
和也が諦めかけたその時。
冷たく暗い虚無の中に、まばゆいばかりの「光のパケット」が、一点の綻びもなく差し込んできた。
「……和也さん、戻ってきなさい! 私が許さないと言っているのよ!」
『和也くん! 座標、固定したよ! 私の全演算能力を、君の「存在証明」に回すから!』
「……会長。……斬り拓きました。……お戻りください、私たちの現実へ!」
怜奈、結衣、そして凪。
ヤマト・ムサシのブリッジで、彼女たちが死に物狂いで送り続けていた「祈り」という名のデータが、虚無の壁を食い破り、和也の魂に直結した。
『マスター、今です! 外部からの支援パケットを同期! ……虚無の門へ、逆インジェクション(論理爆弾)を仕掛けます!』
エリスとムサシの声が重なる。和也は、彼女たちの想いを一筋の「剣」へと収束させた。
「――全システム、再起動!! 俺が書くのは、終わりじゃない……『明日』へのアップデート・プログラムだ!!」
和也が精神の中で、スマホの実行ボタンを力強く押し下げた。
虹色の光が虚無の底で大爆発を起こす。高橋の「黒い核」は、その圧倒的な存在の輝きに耐えきれず、絶叫と共にひび割れ、崩壊していった。
「……馬鹿な、なぜだ……。……なぜ、不完全なはずの……お前たちが……」
「……不完全だからこそ、俺たちはアップデートし続けるんだよ。……あばよ、高橋。……次があるなら、もっとマシなコードを書けよ」
虚無の門が、内側からの爆発に耐えきれず、逆位相の論理波によって強制的に閉じられていく。
和也の意識は、閉じる門の隙間から、黄金の光に導かれるようにして「現実」へと引き戻されていった。
ヤマト・ムサシの艦橋。
和也が激しく咳き込みながら目を開けると、そこには涙で顔をぐしゃぐしゃにした怜奈と結衣が、彼に抱きついていた。
「……おかえり。……おかえりなさい、和也……!」
「……はは、……ただいま。……チェック、完了だ」
和也は、震える手で彼女たちの背中に触れた。
窓の外、灰色の宇宙は消え、そこには再び、遠くで小さく輝く太陽の光が戻っていた。
虚無の門は閉ざされた。
だが、宇宙の深淵にはまだ、ロスト・バイナリの残滓が潜んでいる。和也たちの戦いは、まだ終わったわけではない。
「……エリス、ムサシ。……次のパッチ、準備しとけよ。……この宇宙、まだまだ直すべきバグが山積みだ」
『了解です、マスター。……どんなエラーも、私たちなら修正できます』
ヤマト・ムサシは、静かに反転し、母なる地球へと進路を取った。
その光跡は、漆黒の宇宙に、確かな「存在の証明」を刻み込んでいた。




