第18話:虚無の門、事象の地平線へのデバッグ(中編)
次元跳躍の衝撃が『ヤマト・ムサシ』の艦体を激しく揺さぶる。
通常のワープ航法であれば、窓の外には光の筋が流れるはずだが、今の彼らが目にしているのは、色彩そのものが剥ぎ取られたかのような「灰色」の奔流だった。空間そのものが定義を失い、物質としての連続性が怪しくなっていく。
『警告:艦の外部装甲、論理的摩耗が進行中。……現実存在強度、八〇%、七五%……。マスター、このままでは艦の構成データが環境に溶け出し、私たち自身が「背景ノイズ」になってしまいます!』
エリスの声が、ノイズ混じりにブリッジに響く。
和也のスマホの画面には、ヤマト・ムサシの3Dモデルが真っ赤に点滅し、あちこちのポリゴンが欠け始めている様子が映し出されていた。ここは、宇宙のOSが「不要」と判断し、ガベージコレクション(メモリ解放)の対象とした領域。存在するだけで、宇宙のシステムから消去命令が飛び交う、デバッガーにとっての最前線だ。
「……ムサシ! 装甲を多重化しろ! 物理的な厚みじゃなく、存在の『宣言』を繰り返せ! 『我々はここに存在する』というパケットを、一ミリ秒に一億回撃ち続けろ!」
『了解。……論理装甲、最大出力で再定義。……ですが、演算リソースを防御に割きすぎれば、敵の捕捉が困難になります』
ムサシの銀灰色の瞳が、かつてないほど激しく発光する。彼女は自らの思考ルーチンを限界まで加速させ、艦を取り巻く「無」の圧力に対し、必死に「有」の概念を上書きし続けていた。
その時、灰色の空間を切り裂き、漆黒の槍が艦橋を掠めた。
「――っ、敵襲!? 結衣、捕捉できるか!」
『……無理だよ! レーダーには何も映らない! 空間そのものが「空」なんだから、反射が返ってこないんだ……。でも、そこに「何か」がいることだけは、私の直感が言ってる!』
結衣がコンソールを必死に叩く。モニターには砂嵐のようなノイズしか映らない。
しかし、和也の瞳には違った景色が見えていた。脳を過負荷させた彼の視界には、灰色の空間の中に、周囲よりも一段と深い「虚無の影」が、巨大な触手のようにうごめいているのが見えたのだ。
「……いた。エリス、右舷三〇度! 空間の『欠損』を狙え! 奴らはそこにいるんじゃない、そこを『消して』いるんだ!」
「了解! 収束論理砲、発射!」
ヤマト・ムサシの側面から放たれた虹色の光束が、何もないはずの空間で激しく爆発した。
爆炎の中に浮かび上がったのは、巨大なイカを想起させる、幾何学的な結晶体の怪物。それは生命ではなく、プログラムのバグが物理的な形を持った「ロスト・バイナリ」の歩哨だった。
「凪! あいつを艦に取り付かせるな! 物理層に触れられたら、装甲ごと俺たちの存在を消されるぞ!」
「……御意。……会長。……現実の刃に、斬れぬものなし」
凪が、ハッチを開けて宇宙空間へと飛び出した。
真空の中、彼女の周囲には黄金のバリアが展開され、その手に握られた重力刀が、暗黒のエネルギーを纏って唸りを上げる。
凪にとって、この戦いは己のアイデンティティそのものだった。和也が与えてくれた「凪」という名前、そして今の居場所。それを否定する虚無に対し、彼女は静かな、しかし烈火のような怒りを燃やしていた。
「――ハァッ!」
凪の振るった一撃が、虚無の怪物の中心核を捉える。
怪物は、悲鳴すら上げずに粒子となって散っていった。だが、一帯を倒したところで終わりではなかった。灰色の霧の向こう側から、数千、数万という「空虚の瞳」が、ヤマト・ムサシを包囲するように浮かび上がってきたのだ。
「……冗談でしょう。この数、まともに相手をしていたら、私たちのメモリ(命)が先に尽きるわ」
怜奈が震える手で和也の肩に触れる。
和也は、血走った目でモニターの最奥を見つめていた。
そこに、高橋が逃げ込んだ「黒い核」の信号が、脈動するように点滅している。
「……奴だ。高橋が、この虚無の軍勢を『呼び出し(コール)』してやがる。奴自身が、ゲートの権限(管理者パスワード)を握ったんだ」
「管理者パスワード……? つまり、あいつを止めない限り、この増殖は止まらないってこと?」
怜奈の問いに、和也は重く頷いた。
和也は、自らのスマホをコンソールに力強く叩きつけた。
「全員、よく聞け。……これから、ヤマト・ムサシを『囮』にする。俺は、エリスとムサシの意識を連れて、この虚無のネットワークの中枢へ、直接『介入』を仕掛ける」
『マスター!? それは、貴方の意識を裸でネットに晒すのと同じです! 防壁なしで虚無に触れれば、貴方の自我は一瞬でフォーマットされます!』
エリスが絶叫するが、和也の決意は揺るがなかった。
「……いいや、俺は信じてる。お前たちが、俺というデータの『パリティチェック』をしてくれるってな。……俺が壊れそうになったら、力ずくでも現実に引き戻してくれ」
和也は、不安に揺れる怜奈と結衣、そして宇宙を駆ける凪に、不器用な笑みを見せた。
「……さて。……宇宙で一番タチの悪いバグを、直接叩きに行こうか」
和也の意識が、スマホの端子を通じて、現実世界から切り離される。
彼の魂は今、五感を失い、剥き出しのバイナリ・データとなって、事象の地平線の奥底へと加速していった。




