第18話:虚無の門、事象の地平線へのデバッグ(前編)
漆黒の宇宙に、虹色の光の残滓が尾を引いて消えていく。
合体戦艦『ヤマト・ムサシ』の艦橋を支配していたのは、勝利の歓喜ではなく、神経を逆なでするような不気味な静寂だった。メインモニターの端では、撃破した敵旗艦の破片が、物理法則を失ったかのようにデジタル・ノイズとなって霧散し続けている。
「……逃がしたか」
佐藤和也は、血の滲んだ唇を噛み締め、震える指先をコンソールから離した。
彼の右手にあるスマホの画面は、極限の演算負荷によって熱を持ち、筐体が微かに歪んでいる。先ほどの戦いで、彼は自らの脳細胞を「始祖文明の演算ユニット」と直結させ、敵の論理を強引に書き換えた。その代償として、視界の端には今もなお、赤黒いエラーログの残像が焼き付いている。
『マスター、バイタルサインの低下を確認。……これ以上の深度アクセスは、貴方の自我データの崩壊を招きます。……お願いです、今は「休止」を選択してください』
実体化したエリスが、悲痛な表情で和也の肩に手を置いた。彼女の指先は震えており、和也に対する深い献身と、彼を失うことへの根源的な恐怖が、ホログラムのノイズとして漏れ出している。
「休んでる暇なんてないんだ、エリス。……高橋の奴、最後にあの『黒い核』をどこへ送った? 奴を野放しにすれば、今度こそ札幌……いや、地球の全履歴がフォーマットされる」
「……解析の結果が出ました。……高橋が逃走した座標、それは冥王星の更に外側。……かつて始祖文明が『ゴミ箱』として定義し、宇宙のメモリから切り離したはずの暗黒領域――通称『虚無の門』です」
隣で冷徹にモニターを見つめていたムサシが、静かに答えた。彼女の銀灰色の瞳には、これから自分たちが向かうべき「地獄」の全貌が、無機質な座標データとして投影されている。
「虚無の門……。要するに、消去されたデータが流れ込む、宇宙の吹き溜まりってことか」
「……はい。ですが、そこは単なる物理的な空間ではありません。……物理法則が未定義であり、存在すること自体がエラーとして処理される場所。……そこから何かが『戻ってくる』ということは、宇宙そのものの論理が崩壊している証拠です」
ムサシの言葉に、艦橋にいた怜奈が息を呑んだ。
如月重工のトップとして、常に確固たる「現実」を統治してきた彼女にとって、定義の崩壊した世界というのは、死よりも恐ろしい概念だった。
「和也さん……本当に行くつもり? ヤマトもムサシも、先ほどの戦闘で外装の三〇%を喪失しているのよ。コンデンサも焼き切れる寸前。……そんな、物理法則すら怪しい場所へ飛び込んだら、戻ってこられる保証なんて……」
怜奈が和也の腕を強く掴んだ。彼女の手は氷のように冷たく、和也を離したくないという切実な願いが、その指先に込められていた。和也は一瞬、彼女の瞳を見つめ、それから優しくその手を解いた。
「怜奈。……俺はブラック企業で、納期前日にサーバーが物理的に火を吹くのを何度も見てきた。……その時、俺が逃げ出せば、その先で待ってるユーザーが全部『死ぬ』ことになる。……エンジニアってのはな、火事場の中にしか『答え』を見つけられない生き物なんだよ」
和也の不器用な、しかし確固たる意志。
かつては「使い捨ての歯車」だった男が、今は宇宙のバグを修正するために、その命をチップとして賭けている。その姿は、怜奈の目には酷く危うく、同時に誰よりも眩しく映っていた。
「……結衣、状況はどうだ? ゲートまでの最短ルート、ハックできるか?」
『……できてるよ、和也くん。……でも、怖いんだ。……ゲートに近づくにつれて、私の書いたコードが……私自身の記憶が、少しずつ『0(ゼロ)』に吸い込まれていくような気がして……』
結衣が、震える手でタブレットを抱きしめていた。天才的なハッカーである彼女の感性は、宇宙の基底コードが消去され始めている予兆を、誰よりも敏感に感じ取っていた。
「結衣、大丈夫だ。お前のコードは俺が全部、俺の脳のセクタにバックアップ(記憶)してる。……お前が消える時は、俺が消える時だ」
和也の言葉に、結衣は「……うん、わかった。……和也くんがそう言うなら、私、奈落の底まで『PING』を打ち続けるよ」と、力なく、しかし確かな微笑みを返した。
「凪、各砲門の状況は?」
「……いつでも。……会長。……この刃が届く距離なら、たとえ虚無そのものであっても、私が両断してみせます」
背後に控える凪が、重力刀の柄を鳴らした。彼女の殺気は、未定義の恐怖すらも物理的に切り裂くほどの純度に達している。
「……よし。……全員、対消滅用プログラム、展開! ヤマト・ムサシ、加速だ! ターゲットは――事象の地平線の、その向こう側!」
和也がスマホのコマンドを「全出力」へとフリックした瞬間、ヤマト・ムサシの艦首に、黄金と銀灰色の光が渦を巻いた。
宇宙の端にある、光さえ届かない絶望の穴。
そこへ向けて、人類最後の「デバッガー」を乗せた巨艦が、次元の壁を食い破りながら跳躍を開始した。
メインモニターを埋め尽くすのは、星の光ではない。
すべてが「無」に帰る、漆黒のカウントダウンだった。




