第16話:再起動の予兆 〜深淵から届いた壊れたパケット〜(中編)
「――月面基地が『消えた』だと?」
和也の声が、静まり返った和室に低く響く。
モニターに映し出された月面の映像。そこには、和也とエリスたちが苦労して浄化し、復興の拠点としていたはずの白銀のドーム群が、まるで最初から存在しなかったかのように「背景」と同化していた。瓦礫も、爆発の炎もない。ただ、そこにあったはずのデータが宇宙のハードディスクからセクタごと消去されたような、不気味な空白だけが広がっている。
「そうよ。監視カメラの映像も、通信ログも、全てが『未定義(Undefined)』の壁に阻まれているわ。私の如月重工が月面に投資した数兆円分の資産が、一瞬でゼロどころか『無』にされたのよ……!」
怜奈がタブレットを握りしめ、悔しさに唇を噛む。その横で、天才ハッカーである結衣が、ホログラムキーボードを狂ったように叩きながら悲鳴を上げた。
「ダメ、和也くん! 私の組んだ『絶対防壁』が内側から溶けてる! ウイルスじゃない……これは、プログラムの基底言語そのものが書き換えられてるんだ。Aという変数が、次の瞬間にはAじゃなくなってる。これじゃあ、どんな防御プログラムも意味をなさないよ……!」
結衣のゴーグル越しに見える瞳が、絶望的な速度で流れるエラーログを追っている。
和也は、自身のスマホを端末へと直結した。エリスとムサシ、二人の始祖AIが和也の精神をバックアップし、膨大な情報処理の負荷を分散する。
「……なるほどな。壊すんじゃなくて、『なかったことにする』か。バックアップさえ許さない、究極のデリート命令。エリス、太陽系全域に『存在定義の静的保存』をかけろ! 一分でも一秒でもいい、この世界が『ここにある』という証明を、始祖のコードで繋ぎ止めるんだ!」
『了解、マスター。……プロトコル・スタティック、展開。……ですが、この浸食速度は異常です。……まるで、この宇宙そのものを熟知した「設計者」が、自ら消去命令を下しているようです』
エリスの声に、これまでにないノイズが混じる。
その時。
和室の中央、畳の上の空間がガラスが割れるような音を立てて歪んだ。黄金の粒子でも、銀灰色の光でもない、どす黒い「虚無」のノイズ。
「……ははは。相変わらず、無駄な抵抗をするのが好きだな。佐藤」
そのノイズの中から、一人の男のホログラムが浮かび上がった。
かつて和也に敗れ、札幌の地下で拘束されていたはずの男——高橋だ。
だが、その姿は一変していた。かつてのくたびれたスーツ姿は影を潜め、半身は漆黒のナノマシンと一体化し、左目は回路が剥き出しになって紅く発光している。
「高橋……! お前、脱走したのか!?」
凪が瞬時に間に入り、重力刀を抜く。だが、高橋のホログラムは斬られるどころか、凪の剣を透過して嘲笑うように揺れた。
「脱走? 違うな。俺は『招かれた』んだよ。……佐藤、お前が救ったこの世界、この銀河。……見ていて虫酸が走るんだ。お前が勝手にバグだと決めつけて消去した、あの『美しき停滞』こそが、宇宙のあるべき姿だったんだよ」
高橋が右手を空に掲げる。
瞬間、札幌の空が、まるで紙を破るように真っ二つに裂けた。
雲を割り、次元の隙間から滑り出してきたのは、全長数十キロメートルに及ぶ、巨大な立方体の構造物だった。窓も、エンジンも、武装も見当たらない。ただ無機質な幾何学模様が刻まれたその巨体は、見る者の精神を削り取るような異様な威圧感を放っている。
『……マスター、解析完了。……あれは、始祖文明のアーカイブに記された終焉の象徴。……「ボイド・プラント(終焉の工廠)」。……生命を素粒子に分解し、宇宙を「始祖以前」の静寂へ戻すための自動処理端末です』
ムサシの声が、恐怖で上ずった。
「ボイド・プラント……。あんなデカいもんを、お前一人が動かしてるってのか?」
「俺じゃない。俺はただの『デリート・キー』に過ぎない。……この宇宙を『間違い』だと断じた真の管理者が、お前の傲慢なアップデートを終わらせるために、俺を選んだんだ。……さあ、佐藤。お前の愛するこの街から、順に『消して』やろうか」
高橋が指を鳴らした。
ボイド・プラントの底面が赤黒く発光し、札幌の街全体を包み込むような巨大な光の円陣が展開される。
「……させるか。エリス、ムサシ! これより、ヤマトとムサシを『物理的・論理的』に直結させる! 宇宙の法則を書き換えるってんなら、こっちは宇宙そのものを『再起動』してやるまでだ!」
和也がスマホを強く握りしめ、画面を上方向に力強くフリックした。
ターミナルの最下層、地下ドックに眠っていた『ヤマト』と、その隣に並んでいた『ムサシ』が、同時に咆哮を上げた。
「凪、怜奈、結衣! すぐに艦に乗れ! ここからは、一瞬の同期ミスが全消去に繋がる。……俺の指先から、一ビットも離れるなよ!」
和也の瞳に、かつてのブラック企業時代、デスマーチの真っ只中で「絶対にシステムを落とさない」と誓った、あの狂気じみた執念が宿る。
最強エンジニアvs宇宙の設計者。
札幌の空を戦場に、かつてないスケールの「デバッグ」が始まろうとしていた。




