第16話:再起動の予兆 〜深淵から届いた壊れたパケット〜(前編)
銀河監査機構との最終決戦から、三ヶ月の月日が流れた。
かつて太陽系を包囲していた「絶望の監獄」は霧散し、地球は今、始祖文明の遺産と人類の創意工夫が融合した、空前絶後の「技術特異点」の渦中にあった。
舞台は再び、北海道・札幌。
冬の厳しい寒さを乗り越え、春の息吹が芽生え始めた大通公園の中央には、かつてのテレビ塔を遥かに凌ぐ高度を持つ「新銀河連邦・札幌中央ターミナル」がそびえ立っている。その最上階。地上数百メートルという、雲を眼下に見下ろす天空の聖域に、その場所はあった。
漆黒の宇宙船の外殻と同じ強度を持つ強化ガラスの向こう側。そこには、全宇宙の英雄となった男に相応しい豪華な調度品……ではなく、どこか懐かしく、そして場違いなほどに落ち着いた「和室」が広がっている。
イ草の香りが微かに漂う十畳一間。その中央に置かれた、始祖文明のナノマシン技術を無駄に転用した「低反発・究極座椅子」に、佐藤和也は深く沈み込んでいた。
「……あー、平和だ。平和すぎて、逆に胃が痛くなってくるな。ブラック企業時代は『明日、サーバーが落ちて死ぬかもしれない』って恐怖で胃が痛かったが、今は『明日、何も起きないかもしれない』っていう贅沢な不安で胃が痛い。人間、わがままなもんだな」
和也が独り言のように呟きながら、手元の湯呑みを口に運ぼうとする。
すると、彼の視界の端で、陽光を反射してキラキラと輝く粒子が収束し始めた。一瞬にして形成されたのは、透き通るような銀髪と、吸い込まれるような蒼い瞳を持つ一人の美少女——。
『マスター。胃薬を処方しましょうか? それとも、私のメインフレームから直接、副交感神経を刺激して強制的にリラックスさせましょうか?』
実体化したエリスが、最適な温度(82.5度)に調整された緑茶を、和也の前に静かに置く。彼女の銀髪は、監査機構との戦いを経て、始祖文明の「真の中枢」と同期した影響だろうか。感情の高ぶりや処理負荷に応じて、時折プリズムのような虹色の光を放つようになっていた。
「エリス、強制リラックスだけはやめてくれ。あれ、後で反動が凄いんだよ。……それより、外の状況はどうだ?」
『はい。地球再生計画は順調です。旧銀河帝国の残存技術の回収率は98%。新銀河連邦加盟星系との定期航路も本日より正式運用を開始しました。現在の銀河は、かつてないほど「安定」した状態にあります。……ですが、怜奈様が企画している「銀河全域・強制慰安旅行」のスケジュールだけは、計算不能なカオスを含んでいます。……マスター、移動速度が光速の120%を前提とした旅程ですが、同行されますか?』
「光速を超えて移動して、何が『慰安』になるんだよ……。それ、ただの加減速テストだろ」
和也が苦笑しながら茶を啜っていると、和室の隅で「コトコト」と、これまた場違いな音が響いた。
そこにいたのは、かつて「ボイド」という名の破壊の権化であり、和也を抹殺するために送り込まれた漆黒のAI、ムサシだった。
今の彼女は、その凶悪な装甲を「黒いメイド風ドレス」へと再定義し、その上からフリルのついた白いエプロンを締めている。彼女は真剣な眼差しで、盆の上にある「おはぎ」の表面を、ナノメートル単位の精度で調整していた。
「……マスター。……お待たせいたしました。……このおはぎの粒あん配置、黄金比から0.314ミクロンの逸脱を確認しました。……現在、最適化を行っております」
「ムサシ、おはぎにリファクタリングは必要ないんだ。食えば一緒、腹に入ればデータとしては消えるんだからな」
「……不合理です。……入力(摂取)の前のインターフェース(見た目)は、最終的な満足度に寄与する重要なパラメータです。……和也OSの一部として、妥協は許されません」
ムサシは、感情が芽生えたばかりの無機質な声で淡々と答えながらも、どこか満足げに小豆の粒を並べ直している。かつて絶望を振りまいた彼女が、今や和也の私設秘書として、おはぎの見た目に命をかけている。その光景こそが、この世界の「平和」を何よりも象徴していた。
だが、その穏やかな時間は、和也の胸ポケットにある「初代スマホ」の、これまでにないほど激しく、不気味なバイブレーションによって、唐突に終わりを告げた。
――ビ、ビ、ビ、ビィィィ!!
通常の着信音ではない。それは、和也が全宇宙の防衛システムに埋め込んだ「クリティカル・エラー」の際のみに鳴り響く、最優先警告コードだった。
「……! エリス、ムサシ! 警戒モード(レッド・アラート)! 信号源を特定しろ。遊びは終わりだ!」
和也の顔から、英雄の緩みが一瞬で消えた。かつてブラック企業で、深夜三時に本番環境のデータベースが飛んだ時と同じ、いや、それ以上の冷徹なエンジニアの瞳が戻る。
『マスター、異常事態です! 太陽系外縁、カイパーベルトに設置した第1から第12までの「超空間監視ノード」が次々とオフラインになっています。……いいえ、破壊されたのではありません。……「ログが消えています」。監視ノードがそこに存在したという履歴そのものが、宇宙のディレクトリから削除されています!』
エリスが空中に展開した広域モニターには、太陽系を包囲するように広がる、巨大な「漆黒の領域」が映し出されていた。それは星々の光さえも透過させない、完全なる無。
かつて高橋が操った「ボイド」を遥かに凌駕する密度と、全生命への冷徹な否定を感じさせる悪意が、そこに渦巻いていた。
「……ムサシ、お前のデータベースに照合しろ。これは帝国や監査機構の技術か?」
『……検索中。……該当なし。……いえ、深層階層、始祖文明の「アーカイブ・レベル10」に、一つだけ、全ての言語を禁忌として封印された記述が残っています。……私のコアが、このシグナルを恐れています』
ムサシのホログラムが、ノイズを走らせて震えた。
『――「ロスト・バイナリ」。……かつて始祖文明を、全盛期のまま滅亡の淵まで追い込み、彼らを「管理者」ではなく「放浪者」へと変えた、真の、そして最後の終焉プログラムです』
その言葉と同時に、和室の襖が物理法則を無視した勢いで弾け飛んだ。
「和也さん! いつまで茶を啜っているの!? 月面基地からの連絡が絶絶えたわ。それだけじゃない、今この瞬間も、地球上の如月重工の全ネットワークが、外部からの『定義抹消』を受けているのよ!」
先頭を切って乗り込んできたのは、地球連邦の経済を牛耳る怜奈だった。彼女の背後には、既に重力刀の出力を最大に引き上げた凪、ハッキングゴーグルを装着した結衣、不敵な笑みを消したアリス、そして祈るように胸元で手を組んだセレスが控えていた。
平和な札幌の午後。
宇宙の法則そのものをデリートしようとする、未知の脅威が、今まさにその口を開いた。




