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村長宅の二階。廊下の奥、一番突き当たりの部屋の襖を椿がすっと開けた。
「ここ、使ってね。ちゃんと掃除はしてあるから」
部屋に足を踏み入れた瞬間、春人は思わず足を止めた。そこには、どこか時間が止まったような静寂があった。
整えられた布団、無駄のない配置の棚、簡素ながら使い込まれた机。どれも埃ひとつなく清潔だが、どこか生活感がない。
「……ここって」
「楓のお兄ちゃんが使ってた部屋よ」
椿は淡々と言ったが、その言葉の裏に何か触れてはならないものがあるように思えた。
「もう使われてないのに、ずっと残してあるんですね」
「ええ。お父さんが……いまだに片づけようとしないの。まるで、いつか帰ってくるみたいに」
春人は言葉を失った。
部屋には、誰もいないはずの「気配」がまだ息づいているような、そんな不思議な重みがあった。
「疲れたでしょう? ゆっくり休んでね」
椿はそう微笑んで襖を閉めた。
春人は布団に腰を下ろし、しばらくぼんやりと部屋の天井を見上げていた。
家具の一つ一つが、主の帰りを待っているように静まり返っている。
楓の兄。椿の歳の近い弟だったか。
春人の記憶の中にも、ほとんどその姿は残っていない。
ただ、ある年の祭りの後、忽然と姿を消したという噂だけが、村の中で密やかに囁かれていた。
春人は仰向けに寝転がり、まぶたを閉じた。
だが、眠りはすぐには訪れなかった。
部屋が異様に静かだった。耳鳴りがするほどに。
そして、どこか遠くで、微かに花が咲くような、かすかな音がした気がした。
春人がようやく浅い眠りに落ちかけた頃。
コン、コン、と静かなノック音が部屋に響いた。
「……春人くん、起きてる?」
椿の声だった。
「……はい。起きてます」
戸がゆっくりと開き、椿がひとり分だけの灯りを持って入ってくる。
夜着に着替えた彼女は、昼間の印象とは違っていた。
肩を落とした柔らかい浴衣。濡れた髪が背中に流れ、頬にわずかにかかった前髪の隙間から覗く瞳が、どこか影を宿している。
「ごめんね。夜遅くに」
「いえ、大丈夫です……」
椿は遠慮なく布団の縁に腰を下ろした。
春人のすぐそば。かすかに布団が沈む感覚が伝わってくる。
「……さっき、ちょっと顔色が悪かったから。心配になって」
「少し、昔のことを思い出して……それだけです」
「そう。無理に話さなくていいわ。春人くんには……いっぱい、辛いことあったものね」
椿の言葉には、どこか慈しむような柔らかさがあった。
だが同時に、そのまなざしの奥に、もうひとつの何かが潜んでいる気がして、春人は目を逸らした。
「私ね、春人くんが戻ってきてくれて、本当に嬉しいの」
そう言って、椿はそっと春人の手を握った。
指先が熱を帯びている。
春人の心臓が、どくん、と音を立てた。
「……椿さん」
「覚えてる? 昔、私が春人くんの頭なでてたこと。小さな手で、ずっと私の後ろをついてきたの」
「ええ、なんとなく」
「ねえ、今はもう、私よりずっと背が高くなっちゃったね」
椿はふっと笑い、春人の頬に触れる。
その指先の動きは、姉が弟を撫でるものとは、どこか違っていた。
「……春人くん、大人になったんだね」
その囁きと同時に、椿の身体が寄り添ってくる。
春人は戸惑いながらも、その体温に抗うことができなかった。
あたたかく、そしてどこか危うい。けれどもその夜、春人はそのまま椿を受け入れてしまった。
母親に拒まれたことにより生まれた孤独感を埋め合わせるように。
暗い天井を見上げながら、背中に椿の腕のぬくもりを感じたまま、春人はただ目を閉じるしかなかった。




