3-2
春人は、村の中心にひっそりと構える古い屋敷の前で足を止めた。
ーー杜宮家。
かつて何度も通った家だった。玄関先の石畳の感触や、風に鳴る古びた木の風鈴の音すら、体の奥に染みついていた。春人はゆっくりと深呼吸し、背後を歩いていた父の顔を振り返る。父は何も言わずに小さく頷いた。
重々しく見える古い引き戸の前に立つと、春人は戸を叩こうとして、一瞬手を止めた。これまで何度も軽々しく開けてきたこの家の戸が、今はまるで別物に見える。村に戻ったことの現実味が、この瞬間に一気に押し寄せたのだった。
しかし躊躇う間もなく、内側から戸が開いた。
姿を現したのはーー楓だった。
「……春人くん」
やや驚いた様子で目を見開いた楓が、柔らかくもどこか距離のある声で春人の名前を呼ぶ。昔と変わらぬ清楚な面立ちだったが、その表情には微かな緊張が滲んでいた。どこかぎこちない。
「ただいま、楓」
春人は、どこか懐かしさと気まずさをない交ぜにしたような、妙な口調で答えた。
「お帰りなさい」
そう言った楓は、小さく一礼しながら戸を開き、2人を中へと招き入れた。
続けて、奥の廊下からもう一人、白い靴下の足音が軽やかに近づいてくる。
「ーーあらあら、ほんとに春人くんじゃない。びっくりしちゃった」
椿だった。
相変わらず華やかさをまとった雰囲気で、濃い栗色の髪を肩口でまとめ、優雅に微笑みながら春人の前に現れた。以前とほとんど変わらぬ姿なのに、その瞳だけが、以前にはなかった何かーー言いようのない熱を含んでいるように感じられた。
「大きくなったねぇ。うん、顔つきがすっかり大人っぽくなっちゃって」
「……椿さんも、あまり変わらないですね」
言葉を選ぶように、春人は返した。
「変わってないようで、いろいろあるのよ? でも春人くんが元気そうで良かった」
椿は春人に近づくと、その腕を軽く取り、小さく引き寄せた。
まるで昔のように、可愛い弟の帰還を喜ぶ姉のような仕草……けれど、その距離感は明らかに近すぎた。
「えっと……椿さん」
春人がやや困惑したように声を上げると、椿は悪戯っぽく笑って腕を離す。
「ふふ、ごめんごめん。びっくりした?」
その様子を見ていた楓が、そっと視線を逸らした。どこかその横顔には、複雑な感情が走っているように見えた。
ちょうどそのとき、奥からどっしりとした足音が廊下に響いた。
「春人くん、久しぶりだ」
声の主は、楓と椿の父であり、村の中心に立つ人物ーー杜宮村長だった。
今も変わらず、深い皺の刻まれた穏やかな表情を浮かべながら、春人とその父に向かって頭を下げる。
「お戻り、ご苦労だったな」
「……ただいま戻りました。お時間いただいて、ありがとうございます」
春人の父が丁寧に頭を下げる。村長はその様子に満足げに頷いたあと、春人に視線を移す。
「春人くん、大きくなったな。立派になった。私達は、君が帰ってくるこの日を首を長くして待っていたよ」
その言葉に、春人は小さく頷くしかできなかった。あのとき、自分を村から追い出したのは、この人だった。
だが、それを責める気にはなれなかった。ただ、村の掟という、どうしようもないものの存在が、子供の頃の春人を押し流したのだと、今では理解していた。
「まあまあ、立ち話もなんだ。上がってくれ。今日はご馳走を用意してある」
村長の言葉に促されるように、春人と父は靴を脱ぎ、再びあの懐かしい木の廊下を歩いた。畳の感触と、古い木材の香り。あの頃と何も変わっていないのに、どこか遠い記憶の中を歩いているような不思議な気分がした。
ーーただいま。
けれど、それは「ただいま」と心から言えるような場所では、もうないのかもしれない。




