2-8
朝日が村の屋根を照らし始める頃、杜宮家の広い土間に、靴音が戻った。
ゆっくりと玄関の扉を閉めた楓は、そのまま、扉に背を預けるようにしゃがみ込む。
外は、いつも通りの朝だった。
鳥の鳴き声、薪を割る音。遠くから味噌汁の匂いが流れてくる。
でも、楓の中には、何もかもが空っぽだった。
「……っ」
目尻を濡らす涙を、楓は手の甲で拭う。
けれど次から次へと、堰を切ったようにあふれてくる。
「……やだ、もう……なんで、こんなに」
春人を見送るときは、笑顔だった。
泣かせないって、決めていた。
でもいま、家の中に戻ってきた瞬間、その堤防は崩れた。
春人のことが、好きだった。
ずっと、そうだった。
でも、真希に相談されて、応援すると決めて。
三人で過ごす時間が、これからも続くならそれでいいって——
そう思って、自分の気持ちに蓋をしていた。
(……けど、だめだね。ちゃんと……言えばよかった)
春人の背中が遠ざかるあの朝の風景が、何度も頭の中で再生される。
言葉にできなかった思いが、胸の奥で焼けつくように疼いていた。
「……あらあら、どうしたの?」
その声に、楓は顔を上げた。
白い寝間着のまま、ゆるく髪をまとめた椿が、廊下から現れた。
「泣いちゃって、可愛い私の楓ちゃん」
優しく微笑みながら、椿はすとんと膝をつき、楓のそばに寄る。
何も言わず、そっと肩を抱き寄せた。
「……春人が、行っちゃった」
涙声のまま、楓は胸の内を絞り出す。
「もう、会えないかもしれないのに……私……」
椿は何も言わず、黙って楓の髪を撫でた。
その手つきは姉としての優しさに満ちていた。けれど、その瞳の奥には、別の色があった。
「大丈夫。春人君は、ちゃんと戻ってくるよ」
まるで、何かを確信しているような言い方だった。
楓が涙を拭きながら顔を向けると、椿は微笑んでいた。
「お父さんが言ってたでしょ?成人の儀には帰って来れるって。……ふふ、きっとすぐだよ」
その声音は、どこか甘く、熱を孕んでいた。
楓は気づかないまま、小さく頷く。
「……うん、戻ってきてくれるよね。きっと」
「ええ、きっとね」
椿の笑みは、どこか夢見るようだった。
瞳の奥にひっそりと宿る、狂気の影は、その瞬間、誰にも気づかれなかった。
(……待ってるよ、可愛い可愛い私の春人君。選ばれた君を私はずっと待ってるからね)
そう心の中で呟きながら、椿は妹の髪を優しく梳いていた。




