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『村ノ掟』  作者: 雨徒然
17/27

2-8

 朝日が村の屋根を照らし始める頃、杜宮家の広い土間に、靴音が戻った。

 ゆっくりと玄関の扉を閉めた楓は、そのまま、扉に背を預けるようにしゃがみ込む。


 外は、いつも通りの朝だった。

 鳥の鳴き声、薪を割る音。遠くから味噌汁の匂いが流れてくる。

 でも、楓の中には、何もかもが空っぽだった。


「……っ」


 目尻を濡らす涙を、楓は手の甲で拭う。

 けれど次から次へと、堰を切ったようにあふれてくる。


「……やだ、もう……なんで、こんなに」


 春人を見送るときは、笑顔だった。

 泣かせないって、決めていた。

 でもいま、家の中に戻ってきた瞬間、その堤防は崩れた。


 春人のことが、好きだった。


 ずっと、そうだった。

 でも、真希に相談されて、応援すると決めて。

 三人で過ごす時間が、これからも続くならそれでいいって——

 そう思って、自分の気持ちに蓋をしていた。


 (……けど、だめだね。ちゃんと……言えばよかった)


 春人の背中が遠ざかるあの朝の風景が、何度も頭の中で再生される。

 言葉にできなかった思いが、胸の奥で焼けつくように疼いていた。


「……あらあら、どうしたの?」


 その声に、楓は顔を上げた。

 白い寝間着のまま、ゆるく髪をまとめた椿が、廊下から現れた。


 「泣いちゃって、可愛い私の楓ちゃん」


 優しく微笑みながら、椿はすとんと膝をつき、楓のそばに寄る。

 何も言わず、そっと肩を抱き寄せた。


「……春人が、行っちゃった」


 涙声のまま、楓は胸の内を絞り出す。


「もう、会えないかもしれないのに……私……」


 椿は何も言わず、黙って楓の髪を撫でた。

 その手つきは姉としての優しさに満ちていた。けれど、その瞳の奥には、別の色があった。


「大丈夫。春人君は、ちゃんと戻ってくるよ」


 まるで、何かを確信しているような言い方だった。

 楓が涙を拭きながら顔を向けると、椿は微笑んでいた。


「お父さんが言ってたでしょ?成人の儀には帰って来れるって。……ふふ、きっとすぐだよ」


 その声音は、どこか甘く、熱を孕んでいた。

 楓は気づかないまま、小さく頷く。


「……うん、戻ってきてくれるよね。きっと」


「ええ、きっとね」


 椿の笑みは、どこか夢見るようだった。

 瞳の奥にひっそりと宿る、狂気の影は、その瞬間、誰にも気づかれなかった。


(……待ってるよ、可愛い可愛い私の春人君。選ばれた君を私はずっと待ってるからね)


 そう心の中で呟きながら、椿は妹の髪を優しく梳いていた。

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