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『村ノ掟』  作者: 雨徒然
16/27

2-7

 軽トラックが村の端へと差しかかる頃、春人はまたしても思わず息を呑んだ。


 細い山道の先、緩やかな坂を登りきった場所に、人影がひとつ。

 白くて薄いパーカーの裾が風に揺れている。

 待っていたようにそこに立っていたのはーー


 真希だった。


 春人の目は、無意識に彼女を追っていた。

 その小さな肩が震えている。目を擦るようにして顔を上げ、車に向かって歩み出す。


「春人!」


 軽トラックが近づくと、真希は半ば駆け寄るようにして車の前に出た。

 父が再びブレーキを踏み、車を止めた。

 春人が助手席のドアを開けるよりも早く、真希が声を張り上げた。


「なんで……なんで、あたしの言うこと聞かなかったのよ!」


 涙声だった。


「言ったじゃん、やめろって! あそこは絶対にダメって、何度も……!」


 その瞳に涙をためたまま、真希は必死で言葉を吐き出していた。

 春人は、うまく返すことができなかった。

 自分が何をして、何を見て、どうなったのか。肝心な部分が、抜け落ちている。


 記憶がないという事実は、何よりも罪深かった。


「……ごめん、真希」


 それだけを、春人は絞り出すように言った。


「ごめん、じゃないよ……!」


 真希は歯を食いしばって拳を握りしめる。

 涙が一粒、頬を伝って落ちた。


「……ばか。ほんとに、バカ。なんで一人で勝手に行くの……なんで……」


 春人は何も言えなかった。ただ、心の底から悔いていた。

 けれど、それでも真希はーー


「絶対に……絶対に、帰ってくるんだよ! バカ春人!」


 叫び声だった。


 春人の喉の奥で、何かが詰まった。

 胸が焼けるように痛かった。


「……うん」


 それだけを言い、ドアを閉めた。

 父が静かにアクセルを踏む。


 トラックが動き出す。

 真希がその場に立ち尽くし、だんだんと遠ざかっていく。


 バックミラーの中で、彼女が何度も涙を拭う姿が揺れていた。

 その小さな体が、懸命に春人を見送ろうとしていた。


 春人は拳を握りしめた。


(絶対に……)


 あの村に戻ることが、自分にとってどんな意味を持つかは、まだ分からない。

 けれどーー約束だけは、守りたいと思った。


 たとえそれが、どんなに遠く、苦しい道だったとしても。


 エンジンの唸る音だけが、軽トラックの車内に響いていた。

 真希の姿が見えなくなってからも、春人は黙ったままだった。

 喉がひりついていた。何かを叫びたいのに、何も言葉にできなかった。


 助手席の窓の外、村の山道が徐々に切れ、見慣れない県道が遠くに伸びていく。

 村を離れるたびに、何かが自分からこぼれ落ちていくようだった。


(……ごめん、真希)


 謝る資格なんて、自分にはもうなかったのかもしれない。

 そう思えば思うほど、胸が苦しくなった。


 そしてふと、真希のあの言葉が頭の中で蘇った。


「なんであたしの言うこと聞かなかったのよ!」


 ——どうして、そんな言葉を?


 春人は眉をひそめた。

 何かがおかしい。思い出せないことがある。確かに真希に止められた。それは覚えている。けれど、それは“いつ”だった?


(昨日……?)


 記憶を辿ろうとした瞬間、ずきりと頭に痛みが走った。


「……っ」


 額に手を当て、春人は小さく呻く。


 思い出さなければ、と脳の奥に手を伸ばすような感覚。

 神社。夜の闇。鳥居をくぐり、草の擦れる音。……そうだ、そのあと——


「……真希と、会ったんだ」


 ぽつりと呟いた。

 思い出した。あの夜、家を抜け出した春人を、真希は途中で待っていた。

 あきれたような顔で、でも本気で怒って、止めてくれた。


(それでも、俺は……行ったんだ)


 真希と口論になり、彼女を置いて先に進んだ。

 あの不気味な鳥居の前に立ち、あの低いしめ縄をまたぎ、境内へーー


「……それから、俺は……」


 そこで、記憶が途切れた。


 それ以上を思い出そうとした瞬間、頭痛が鋭くなった。

 痛みというより、脳が思い出すことを拒否しているような感覚だった。


(……なんだ、これ……)


 ぼやけた視界の中、目の裏側に、ひとつの光景が浮かんだ。


 ーー花。


 白く、透けるような花弁。

 風もないのに揺れる一輪の花が、宵闇の中でぼうっと発光するように、そこにあった。


(あれは、なんだ……)


 冷たい汗が背中を流れる。

 吐き気に近い違和感。まぶたの裏にこびりつくようなその光景が、現実なのか幻なのか、春人には判断できなかった。


 ーーそれでも確かに、あの神社で見た“何か”だった。


「俺は……俺は、あそこで……何を、見たんだ……」


 問いかけは宙に消え、返事はなかった。

 ただ遠くで鳥が鳴く声と、車のエンジン音が、世界の輪郭をかろうじて繋ぎとめていた。


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