2-6
東の空がわずかに白み始めたころ、和泉家の引き戸が静かに開いた。
まだ夜が完全には明けきっていない。家の前に立つと、空気はひどく冷たく澄んでいて、土と杉の香りが鼻に刺さる。
春人は小さく息を吐いた。曇った吐息が、消えた。
隣には父の姿があった。古びた軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。ガソリンの匂いとともに、乾いたエンジン音が村の静寂を破る。
助手席に座ると、父は無言のまま、シートベルトの金具を手渡してきた。
その手を受け取りながら、春人はふと、家の扉の向こうを振り返った。
だが、そこに母の姿はなかった。
出発の時刻になっても、母は顔を見せなかった。
最後に交わした会話は怒鳴り声。あれが、母との別れの言葉になる。
「……行こうか」
低く落ち着いた父の声に、春人は小さく頷く。
軽トラックは大きく揺れて動き出す。
軋むサスペンションの音。かすかに聞こえる小鳥の声。
それらの音の向こうで、春人の胸の奥では、何かが静かに崩れていくような感覚があった。
もう、この村で目を覚ます朝はもう来ないのかもしれない。
土の匂いと、遠くで鳴くカラスの声と、この村ののどかな雰囲気を。
春人の知る“当たり前”の全てが、いまゆっくりと遠ざかっていく。
助手席に座りながら、春人は窓の外を見つめた。
脳裏に浮かんでくるのは、あの二人の顔。
真希と楓。
どんなときでも一緒だった。喧嘩ばかりだった真希。いつも仲裁してくれた楓。
言葉にできないほど、たくさんの思い出が胸をかすめる。
そして——もうひとり。
椿。
春人は思い出す。
ある夏の夕暮れ。神社の石段に座り、優しく笑ってくれた彼女の顔。
どこか大人びていて、でも飾らず自然体で、春人の拙い話にも耳を傾けてくれた。
“弟”としてしか見られていなかったことは、幼いながらにも理解していた。
それでも、自分はあの人の隣に立ちたいとずっと思っていた。
だからーー
「早く大人になりたい」と願った。
だから、あの神社に足を踏み入れたのかもしれない。
(……そうか、俺はーー)
トラックがゆっくりと曲がる。その拍子に、春人の視線が足元に落ちた。
手の平が汗ばんでいた。
(俺は……椿さんのことが、好きだったんだ)
ようやく、その気持ちに言葉が与えられた瞬間だった。
軽トラックが村の中心部に差しかかる頃、春人はふと目を見開いた。
村長の屋敷の前に、誰かが立っていた。
淡い藍色の制服の上に、白いカーディガンを羽織った少女。
杜宮楓。まだ陽も昇りきらぬ薄明かりのなか、その姿はどこか幻想めいていた。
「……」
隣でハンドルを握る父が、ちらりと楓を見やり、そして何も言わずに車をゆっくりと停めた。
春人は座席から動けずにいた。
情けなくて、顔を上げられなかった。
胸の内に渦巻く後悔と、恥と、痛み。
そのどれもが、楓の前に出るには足枷のようだった。
だがーー
「……待ってるから」
その言葉が、楓の口から零れた。
優しく、静かな声だった。
風に揺れる髪。じっとこちらを見つめる大きな瞳。
その微笑みは、泣きそうなほどに強く、そして綺麗だった。
春人はようやく顔を上げた。
気がつけば、目に涙が溜まっていた。
止められなかった。
「……ありがとう」
声にならない言葉を口の中で呟きながら、春人は窓越しに頭を下げた。
楓は、小さく手を振った。
父がエンジンをかけ直す。
車がゆっくりと再び走り出す。
春人は後ろを振り返った。楓の姿が遠ざかる。
(本当に、ありがとう)
その思いだけが、胸に深く残った。




