2-5
「出て行きなさい。今すぐにでも」
母のその一言で、春人は立ち上がろうとした。
だが、肩にかかる手がそれを止める。
父だった。
無言のまま、ただその手に、揺るがぬ力があった。
春人は驚いて父の顔を見上げた。
母もまた、思わず口をつぐんだように沈黙する。
「……春人は、俺が連れて行く」
父の声は低く、静かだった。
けれどその一言が、部屋の空気を一変させた。
「な、何を言ってるの。あなたまで……っ」
母は声を震わせながら叫ぶように言った。
だが、父はそれに一切動じなかった。
母を真正面から見据えて、はっきりと告げる。
「春人は、まだ子供だ。誰かがそばにいてやらなきゃならない。だったら、父親である俺が行くしかないだろう」
その言葉に、春人の胸が熱くなるのを感じた。
信じられなかった。
父が、自分のためにこんなにもはっきり言葉を紡いでくれるなんて。
(……そんなの、初めてだった)
春人の記憶の中にある父は、いつも無口だった。
家では母が話し、父はそれを黙って聞いているだけ。
夕食の席でも、母の小言に頷くだけ。
春人が悪さをしても、大きな声で叱ることは一度もなかった。
――わかってるな。
それだけ。
短い言葉と、ほんの少しだけ長くなる視線。
父は、春人に向かって怒鳴ったことも、抱きしめたこともなかった。
けれど今、父の腕はしっかりと自分の肩に置かれ、言葉は自分の未来を背負って語られている。
「……あなた、この村で生まれ育ったのよ? 掟の意味を知らないわけじゃないでしょう。父親だから?そんな理由で一緒に出て行くって、本気なの?」
母が怒りを滲ませて言う。
「春人は掟を破ったのよ。神に背いたのよ。村を出るのは当然なの。なのにあなたまで……!」
その言葉に、父の視線がゆっくりと母へと向けられる。
「……春人は、生きてる。生きて帰ってきた。だったら、俺たちの子として迎え入れるだけじゃないのか?」
短く、だが強い。
その一言に、母は絶句する。
「村の掟は十分に理解している。俺もこの村で生まれ育ったからな。受け入れられないのなら、それでもいい。けどな……」
父の目は、春人をちらりと見た。
そのまなざしには、言葉以上の想いが込められていた。
「こいつを一人にはしない。村にいられないなら、俺が責任を持って育てる。それだけだ」
その言葉に、春人は初めて「父親」の顔を見た気がした。
これまで無口で、何を考えてるかわからないとさえ思っていた。
けれど、今この瞬間の父は、誰よりも真っ直ぐだった。
「一緒に来てくれ、俺たちと」
父は、母に向かって頭を下げてそう言った。
けれど、母は首を横に振る。
その瞳には、怒りと恐怖と、そして哀しみが交錯していた。
「……行かない。わたしは、ここを離れない。離れられない……」
母はまるで自分自身に言い聞かせるようにそう呟いた。
それは、住み慣れた土地に縛られているというよりも――
この村の信仰に、魂ごと縛られているような響きだった。
(――俺よりも、掟を選んだんだ)
春人はその事実を、理解したくなかった。
けれど、耳に届いた母の震える声は、それを否応なく突きつけてきた。
春人は理解した。
母はもう、自分の母ではなかった。
いや、違う。
母にとって、自分は母の子ではなくなったのだ、と。




