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『村ノ掟』  作者: 雨徒然
13/27

2-4

 家の玄関の引き戸を開けると、室内には不自然なまでの静寂が満ちていた。

 どこかの雨戸が軋む音と、春人の濡れた足音だけが響く。


「……戻ったぞ」


 低く短いその声が、父の口から絞り出される。

 春人の足元にはまだ湿った土がまとわりつき、服の裾は泥に汚れていた。父に背を押されるようにして中へ進むと、家の奥、台所との境にある敷居の前に一人の人影が立っていた。


 母だった。


 すっと立ち尽くすその姿は、灯りの落ちた薄暗い室内の中で、不気味なまでに静かだった。

 彼女は、春人の姿を見るなり、すぐに口を開いた。

 だが、その言葉は「無事だったのね」でも「心配した」でもなかった。


「……どうして、掟を破ったの?」


 その一言が、玄関先の空気を張り詰めさせた。

 冷たく、鋭い声音。表情は、怒りよりも絶望に近い。

 春人の心臓が、ひとつ打ち損なったように感じた。


「心配してくれないの……?」


 思わず口から漏れた問いに、母は目を細めて言った。


「掟は、命よりも重いのよ」


 その言葉には、確かな信仰があった。

 春人を守ろうとする気配は、どこにも感じられなかった。

 彼女にとって、“春人”よりも、“掟を破った者”という属性の方が重かった。


 居間に移ると、母は一歩も座らず、その場に立ったまま春人を見下ろしていた。

 父は黙って畳に座り、春人の隣に腰を下ろす。ふたりの間には重苦しい沈黙が流れていた。


 春人は意を決して言葉を発した。


「……村長が、言ってた。俺が十八になって成人の年を迎えたら……そのときはまた、儀式に出られるって……。だから……俺は――」


 言い終わる前に、母の手が卓に叩きつけられた。


「ふざけないで!」


 その声は怒号というより、悲鳴だった。

 春人の言葉は、一瞬でかき消された。


「あなたが……あなたがやったことが、どれだけのことか分かっていないのね! 村の神域を汚して、掟を破って、恥をさらしておいて……!」


 母の目には涙が浮かんでいた。だがそれは悲しみではなかった。

 信仰を裏切られた者の、怒りに満ちた涙だった。


「……俺は、出て行けって言われたから村を出るけど……。十八になったら……」


「戻ってこないで!」


 母の声が、春人の胸に突き刺さった。


「もう、うちの子じゃない。そんな掟を踏みにじる子は、わたしの家にはいらない。……わたしはね、村の一員として、この地を守って生きてきたの。あなたが何を失ったって、信仰は失えないのよ……!」


 言葉のひとつひとつが、春人の鼓膜に深く刻まれていく。


 守って生きてきた。

 信仰は失えない。

 わたしの家にはいらない。


(……俺と一緒にいたくないんだ)


 春人はそう思った。

 母がこの村を離れたくない理由は、思い出や生活があるからじゃない。

 掟を破った自分と共にいたくない。

 母は信仰に縛られた人間だった――そう理解した瞬間、春人の胸の奥で何かがぽっきりと折れた。


 母の怒りの視線が、春人を突き刺す。

「出て行きなさい。今すぐにでも」


 春人はその場で立ち上がろうとした。

 が、腕がそっと肩を押しとどめた。

 父だった。

 無言のまま、ただその手に、揺るがぬ力があった。


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