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家の玄関の引き戸を開けると、室内には不自然なまでの静寂が満ちていた。
どこかの雨戸が軋む音と、春人の濡れた足音だけが響く。
「……戻ったぞ」
低く短いその声が、父の口から絞り出される。
春人の足元にはまだ湿った土がまとわりつき、服の裾は泥に汚れていた。父に背を押されるようにして中へ進むと、家の奥、台所との境にある敷居の前に一人の人影が立っていた。
母だった。
すっと立ち尽くすその姿は、灯りの落ちた薄暗い室内の中で、不気味なまでに静かだった。
彼女は、春人の姿を見るなり、すぐに口を開いた。
だが、その言葉は「無事だったのね」でも「心配した」でもなかった。
「……どうして、掟を破ったの?」
その一言が、玄関先の空気を張り詰めさせた。
冷たく、鋭い声音。表情は、怒りよりも絶望に近い。
春人の心臓が、ひとつ打ち損なったように感じた。
「心配してくれないの……?」
思わず口から漏れた問いに、母は目を細めて言った。
「掟は、命よりも重いのよ」
その言葉には、確かな信仰があった。
春人を守ろうとする気配は、どこにも感じられなかった。
彼女にとって、“春人”よりも、“掟を破った者”という属性の方が重かった。
居間に移ると、母は一歩も座らず、その場に立ったまま春人を見下ろしていた。
父は黙って畳に座り、春人の隣に腰を下ろす。ふたりの間には重苦しい沈黙が流れていた。
春人は意を決して言葉を発した。
「……村長が、言ってた。俺が十八になって成人の年を迎えたら……そのときはまた、儀式に出られるって……。だから……俺は――」
言い終わる前に、母の手が卓に叩きつけられた。
「ふざけないで!」
その声は怒号というより、悲鳴だった。
春人の言葉は、一瞬でかき消された。
「あなたが……あなたがやったことが、どれだけのことか分かっていないのね! 村の神域を汚して、掟を破って、恥をさらしておいて……!」
母の目には涙が浮かんでいた。だがそれは悲しみではなかった。
信仰を裏切られた者の、怒りに満ちた涙だった。
「……俺は、出て行けって言われたから村を出るけど……。十八になったら……」
「戻ってこないで!」
母の声が、春人の胸に突き刺さった。
「もう、うちの子じゃない。そんな掟を踏みにじる子は、わたしの家にはいらない。……わたしはね、村の一員として、この地を守って生きてきたの。あなたが何を失ったって、信仰は失えないのよ……!」
言葉のひとつひとつが、春人の鼓膜に深く刻まれていく。
守って生きてきた。
信仰は失えない。
わたしの家にはいらない。
(……俺と一緒にいたくないんだ)
春人はそう思った。
母がこの村を離れたくない理由は、思い出や生活があるからじゃない。
掟を破った自分と共にいたくない。
母は信仰に縛られた人間だった――そう理解した瞬間、春人の胸の奥で何かがぽっきりと折れた。
母の怒りの視線が、春人を突き刺す。
「出て行きなさい。今すぐにでも」
春人はその場で立ち上がろうとした。
が、腕がそっと肩を押しとどめた。
父だった。
無言のまま、ただその手に、揺るがぬ力があった。




