エピソード97 デッサン崩壊のオークと見えない暗殺者【等価交換のドーナツで窮地を脱し、迷子にお弁当を届けるシェフ】
右――後方、まだ距離はある!! 逃避の言葉が頭に浮かぶ。
……関わってはいけない。
今度は、左手……斜め上から……!!
見えない斬撃が音もなく地面を切り込み、えぐり取る。
見えない相手と対峙するときは、魔素から位置を把握するしかない。だが、相手のほうが上手だ。
動く瞬間に魔素の流れを断ち、現れた瞬間にだけその気配を出現させる。並の魔物の仕業ではないことはわかる。
「ナッツさん……無事かい?」
僕はとっさに展開させた身体強化の術式で、見えない斬撃を受け止め、避ける、受け流す。
……来る!
瞬間――視界に映らない魔素の気配が分裂した。
いや、もともと二つあったものが、その場から二体に分かれたのだろう。
『厄介だな……!?』
ビンッ! と、白い猫は生み出した魔法盾で防いでは、その場から飛び退く。その移動した先に襲いかかる別方向からの一撃を、術式で相殺させていた。
……少なくとも二体以上――。
「ナッツさん。魔素の流れを感知できる?」
僕が言うと、ぶるぶると身体を震わせながら、白い猫の目が紅い色に変わった。
『安心しろ。二体だ。それ以上はいない』
……ナッツは本気のようだ。
とはいえ、見えない相手とやり合うのはこちらの分が悪い。
明らかに目の前にいる見えない相手の正体は、単独浮遊だ……――浮遊、つまり概念の抜け殻を持たない理を示している。
僕たちが生きるという表現を使う場合のほとんどが、肉体を維持するためだ。魔物も同様に、概念という器に理が重なると存在になる。
……僕たちを追い詰めてくる相手は――形を持たない魔物、探索者たちの間では、こう呼ばれている……通称、亡霊。
『どうして仕掛けてこない……』
「わからない」
僕とナッツが動きを止めると同時に、亡霊たちの魔素も消えた。
シギィイ……ゴガァアッ……ドウドアドウ……。
静まり返った街の中に、魔物たちの不気味な奇声だけが響く。
消えた……――亡霊の魔素は周囲に感じられない。
「諦めてくれたのかな」
『何のためだ……奴らのほうが上手だ。逃がす道理もない』
「……目的は他にあるということか」
周囲を警戒しながら、白い猫は異変を探していた。
僕には亡霊たちを捉えられない。だが、亡霊たちには、概念を持つ僕たちの居場所は手に取るように見えているわけだ。
カタッ……。
山積みにされて崩れたコンクリートの破片が、地面に落ちてきた。
……異変!?
気配が膨らんだ。その直後だ。僕とナッツの横に大鎌を持つ黒い影が現れた。
「風の結界っ!」
……間に合わない――が、亡霊はそのまま一瞬だけの残像を残して、虚空に消え失せる。
『ミナト、翔べっ』
「無理だよ、人間は空を飛べないことになってるからね」
『面倒なこと言ってないで、そこから離れろ』
ドゴォォ!
今までいた場所が、まるで隕石でも落ちたように蜂の巣状に地面がえぐれていた。
「今、僕たちは狩られる側になってるのかな」
『どう見ても、さっきからそうだろう……』
僕はナッツがとっさに張った球体の対魔力結界に閉じ込められたまま、ふわふわと宙に浮かんでいた。
『ミナト! 今すぐに広域の術式であいつらを殲滅しろ!』
「ダメだよ、そんなことしたら、カグラを巻き込むかもしれない……!」
『どうするっ! こんなもの相手にできんぞ』
ボムンッ……。
……!!
(何だろう、あれは……――)
中央に真円の空洞を持つ、肉厚な円盤が僕とナッツの目の前に回転しながら飛び込んでくる。
「今よ! 地下街に逃げて!」
膨らむ黄金色のトーラス……――いや、あれはドーナツか?
声が聞こえた。その瞬間に――ドーナツは風船のように膨れ上がった。
『行くぞ! 今しかない』
白い猫の結界が弾けて解除される。僕はそのまま地面に放り出される。
「もっと丁寧に扱ってほしいな」
『いいから走れ! あいつがおとりになってくれている間にな』
……あいつ?
先を行く白い猫を追いかけながら、ふと後ろを振り返る。
「何だろう……あのずんぐりした魔物は?」
モコモコとした腕を振り上げて、ピンク色をした巨体は叫びながら、何かと戦っている。虚空に向け、右手に持ったフランスパンらしきものを振り上げているが見えた。
(見物していたい気持ちもあるけど……)
……不格好で可愛くないぬいぐるみが、決死の覚悟で亡霊とやり合っているようだった。
……ぬいぐるみの正体も気になるがーー
ピンクの巨体が活躍してくれている間に、僕は地下街に続く入り口に向けて急いだ。
ブヒイイイィッ
僕が地下へと伸びた階段を駆け下りた後……遠くの方で魔物の悲鳴が響く。
「どうにか間に合ったわ」
声ーー聞き覚えのあるもの。階段の下から、すっと現れる影と気配。
「カグラ……? どうしてここに――」
地下道に続く階段の下、その壊れた扉の向こうから、だらりとしたコートに長い黒髪、眉根を寄せながらしぶい顔をした少女が現れる。カグラだ。
「それはこっちのセリフ。即応探索者の君が、こんな危ないダンジョンにどうしているの?」
……即応探索者って、意外と地位が低いらしい。
「まだ、お弁当を渡してなくて、後を追いかけてきたんだ」
「そんな理由で命をかけたわけ?」
呆れた顔をして、彼女は深いため息をついた。
「ところで……カグラーー」
「他に何か問題でも?」
「そうじゃなくて……その、外にいたピンク色の……カバ? のことだけど」
「オークよ! 見てわからない?」
……わからないから聞いているんだけど。
って、オーク? どういうことだ。
不機嫌そうに顔を赤くしながら、カグラはぶつぶつと呟いている。
「あれは、私の……ーー召喚術で呼び出した魔物なのよ」
「魔物を召喚?」
「もっとデッサン力があったら、私だってリアルなオークくらい召喚できるけど……急だったから」
術式によっては、理を核とし、概念を具現化する能力を持つものがいる。それが召喚術の能力だ。
もっともーー
召喚といっても、理から概念を構築して組み上げてるに過ぎないから、異界の魔物たちを直接呼び寄せて従わせているわけではない。
ーー探索者が自分の能力を相手に伝えるときは、協力関係の必要性が発生した場合である。
……つまり、ダンジョンを攻略する仲間として、カグラは僕たちを認めたのだろう。
「私の能力は、等価交換の法則ーー交換条件で術式を使えるといったら分かるかしら?」
……忍がお金を対価に術式を展開させていたあれと似ている。
「媒体が魔力ではなく、概念そのものによる交換……こういことかな?」
僕がそう尋ねると、彼女は無言のまま頷いた。
「いいえ。どんな場合でも、魔力は必要よ。私たちは魔力を交換条件に、能力を扱っているだから……」
「でも、あのカバのぬいぐるみはーー」
言いかけた僕に、カグラのぎろりとした視線を向けられる。
「オークだと何度言ったらわかるの?」
……僕にとってはどちらでも良いのだか。
「ドーナツにも、概念と理があって、ドーナツにある存在理由を糧に、オークを具現化したというわけ」
……えーと。つまり、ドーナツに宿る魔力でオークを呼び出した……というわけだ。
「さすがに、ドーナツだけでは魔力量が足りなくて、長い時間の維持は無理だったけど……」
一通り説明を終えると、カグラは周りを警戒しながら、僕たちについてくるように命じた。
てくてく……てく、てく……
地上から地下へと伸びる階段、その先に続く地下道もひどく荒れた様子だ。
蛍光管の明かりがちかちかちと点滅している。彼女が示すまま、僕たちは後に続いた。
後ろを歩きながら、ふと白い猫は彼女の肩越しに飛び乗って言った
『迷子……。聞きたいことがある』
「うわっ! 猫がしゃべった」
思わずその場から飛び退くカグラに、面倒そうにナッツは首を振った。
……普通の反応だろう。
やれやれとした顔で、白い猫は音のある声で続けた。
『……あの亡霊はなんだ?』
「あの……えっとーー」
猫に問われ、どうしていいのかわらず、僕の顔をちらりと見てくる。
「猫さん、始めまして、カグラよ」
『知ってる……今さら、あいさつは必要か?』
「そうね。私たちはもう迷子友の会のメンバーですものね」
『……そんなのに入った覚えはないが』
てくてく……てく、てく……
しばらく、先を歩きながら、カグラはぽつりと言った。
「あの亡霊は……――」
周りを警戒しながら、扉の陰に身を隠し、亡霊たちの気配を窺う。
「私を暗殺に来た殺し屋……そう言ったほうが分かりやすいかしら」
壁の影に身を隠し、周囲に視線を巡らしながらカグラは告げた。
……あんな物騒なものに命を狙われてるなんて、一体全体どんな悪いことをしたのだろうか。
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