エピソード96 深層クラスの食材と理の単独浮遊【迷子を探す前に未知の脅威に狙われ、珍しく逃走を図る弁当屋のシェフ】
罪と罰は、天秤が釣り合うのに似ている……――。
気持ちのずっと奥の方で、誰もがそれを望んでいるからかもしれない。
実際の罪は、誰のものなのだろうか……――僕には測ることはできない。
理が欲望の一端によって生み出されているとしても、そこから体現された概念は、欲望という罪を背負う義務はないからだ。
罪とは、誰のものか……。
スッ……。
――湿り気のあるアスファルトの匂いが、嗅覚を刺激する。
視覚にはまだ、映像は届けられていない。
ダシ、ダシダシ……ダシ、ダシ……。
舗装されていない道の上を、重い音が歩き回っている。
(ここは、どこだろう……)
ダンジョン内であることは間違いない。これまで渡ってきたダンジョンの構造を脳内に浮かべ、視覚の届かないままの情報で、僕は周囲の環境を窺っていた。
ダシュンッ!
聴覚が音を捉れーー空気の揺れを触覚が受け取る。
身体のほうが先に動いた。風圧が頬のすぐそばを過ぎる。
足元は荒れた大地で、砕けた石と砂、木の根があることはわかる――だが、それはどれも触覚による伝達でしかない。
『来るぞ! ミナト』
脳内に響くナッツの念話が、盲目の視覚の代わりとなり、僕はとっさに身構えるとペティナイフに術式を施す。
――目の前の『ソレ』に向けて、付与能力済みのナイフを振りかざした。
バタン……。
ずっしりと鈍い音が足元に響いた。
ぐらり……。一瞬、身体から力の抜けるような感覚のあと――視覚が揺れた。ノイズにも似ている。
「オークか……」
足元に倒れる魔物の姿を視覚に映し出されたあと、襲ってきた魔物の正体が二足歩行の豚であることを認識した。
魔素の脈動を断ち切られたオークは、そのまま動かない。魔物の姿を見て、僕は改めて視覚が戻ったことが理解した。
(ここは……?)
辺りを見渡した。それまでいたはずの静謐な洞窟内でないことはわかる。
……街。
崩れたビル群と、折れた信号、山積みにされて置き去りのままの自動車と重機。朽ち果てた看板がアスファルトに突き刺さり、植物のツタのようなもので覆われていた。
……知っている街だ。
かつては高い塔のようにそびえ立つ駅前のビルも、今ではその見る影もない。半壊したコンクリートの壁とガラスのない破られた窓の奥には、幾つもの魔物たちの姿が見えた。
……模倣された街にしては、たちの悪い冗談だ。
『私たちに向けての当てつけか……?』
肩越しにちょこんと飛び乗ってきた白い猫が、口調を強めて言った。
「罪の代償として、見せられているのかもね」
『ふん……気に食わない』
足元に散らばる割れたガラスの破片が、カシャリと嫌な音を立てる。
かつてはファッション雑貨のお店だったのだろうか……今では、ショーウインドウに飾られたマネキンには、侵食した植物のツタがドレスを作っていた。
……着飾るものへの罰でも示しているのかもしれない。
『ところで……ミナト、何してるのだ?』
「このままにしておけないからね」
『気をつけろ』
「すぐに済ませるよ」
食材は粗末にできない。核が魔素である以外は、魔物も僕たちと同じ生き物だ。だから、不要な狩りはしない。僕が生きるのに必要な分だけ、魔物から食材をいただくだけだ。
――瞬間冷却!
解体した肉を能力で冷凍させ、あとは亜空間収納にしまう。
……こうしておくと、お弁当の食材として使いやすい。大型の魔物は魔素抜きだけして冷凍しておくのだが、今回は中型の魔物だから、そのまま解体して食材にできる。
『避けろ! ミナト』
「え?」
影。膝を地面について作業している僕の背後――頭上からと言ったほうが良い……。
灰色の影が手元を暗くし、その瞬間――本能的な殺意が襲ってくる。
魔物が僕を狙う理由は異物の排除。
異なったものを遠ざける、その心理は人間も同じだ。
世界の融合が始まった頃から、人間と魔物による侵略と生存の競争は続いている。
だから……――僕は、生存を選ぶ。
手にした青龍刀を振りかぶった魔物は、僕に避けられたと知ると、すぐさま尻尾を振り回して追尾してくる。
「リザードキングか……」
『お前、楽しんでないか』
「どうしてわかったのかな」
『あんなでも捕まえるつもりだろ』
「食材に罪はないからね」
狩りをするのは、生きるためだ。
魔物は食物であると同時に、命を狙う荒れ狂う獣でもある。それは相手にとっても同じ道理になるだろう。
(あの硬い皮膚には、まとめにやっても刃が通らないな……)
僕はペティナイフに軽量の術式を施した。同時に耐久強化、鋭利化、次いで飛刃加速を続けて付与――。
「有り難く狩らせてもらうよ」
……解き放つ――狙いは魔素の脈動。
ペティナイフの刃が光を反射し、一瞬のきらめきと共にリザードキングの分厚い皮膚を貫きーー魔素の流れを断ち切る。
ドッ……。
勢いよく襲いかかってきたはずの魔物は、ぴたりと動きを止めて、ばたりとその場で倒れた。
『魔物の数が多いな……それも――』
気が付かけた。魔物たちの気配がざわつく。相手の動きを読み取るように、ナッツは耳を動かしながら呟いた。
(崩れたビルの残骸に一つ、廃墟のデパートに複数、地下鉄の入り口にも数体……いる)
……忍とプリズンダンジョンに入った時もそうだったが、魔物の強さが通常のダンジョンに比べると異常に高い。
「獲物としては不足はないけどね」
『お前、このことを予想してプリズンダンジョンに入ったわけではあるまいな』
「…………」
……その気持ちもないわけではない……。
先ほどのリザードキングといい、オークジェネラルにしても、深層クラスの魔物が勢揃いしている。食材としては申し分ない。
何も言わない僕に、白い猫は小さくため息をついた。
『お前と一緒にいると飽きないな』
「そう? 僕も丁度いい話し相手がいて助かってるよ」
『……話し相手か。なら、お前が飽きるまで共にいてやる』
やや不機嫌そうにしながら、ナッツの視線は荒廃した街並みと、そこに巣食う魔物たちに向けられた。誰にともなく、白い猫は言った。
『それにしても、この街は――』
崩壊して何年も経った街並み。今でないとき。未来を暗示させているものなのか、はたまた僕たちに対しての当てつけか……どちらにしても、幾年もの月日が流れてから、魔物たちによって支配された札幌の街並みは見たくない光景だ。
「彼らの生存本能なんじゃないかな」
『悲願というものか……?』
「魔物には感情はないけど、概念を使って投影した形というのなら、間違いなく彼らが望んでいる街の姿なのかもしれないね」
世界は一つの均衡で保たれている。それは天秤のように釣り合いながら、現実世界と魔物たちの住む異界とが牽制しながら結ばれている。
……だが、均衡はただの憶測にすぎない。
いつ崩れてもおかしくないからだ。たとえ何年も鎖につながった均衡だったとしても、崩れないという保証はない。
『……迷子を探すぞ』
「そうだね」
リザードキングに瞬間冷却の術式を施し、亜空間収納にしまうと、僕は立ち上がった。
……ん?
ナッツはとっさに魔法盾を展開させた。
パンッ!
何かを弾いた。見えない力の奔流が、僕とナッツの背後を確実に捉えてきた。
(狙われている……?)
周囲を見渡すが、概念の気配はない。だとすれば、理の単独浮遊になる……。そうであれば厄介だ。
『ミナト……いったん退くぞ……』
……関わってはならない。本能的に僕とナッツは、見えないものからそう感じ取った。
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