エピソード95 ドーナツの滝と最後の一押し【銀竜の天秤を弁当で釣り合わせ、未配達の品を届けるために牢獄迷宮へ飛び込む弁当屋のシェフ】
ーー我が声に応えよ!
カグラの声……魔力の宿した力ある呼び声が大地に響いた。
シャンシャン……シャンシャン……。
風ーー巻き起こる魔素の風圧が辺りを襲った。
それまで押し黙っていたはずの水面に波が立ち――荒れ狂うほどに、湖面の表面には揺れ、島は揺さぶられた。
ザバアアアアッ! ジャバァンッ……!
……何が起きたのか。
先ほど渡ってきたばかりの橋は、打ち付けた水の塊に耐えきれず、支えるはずの柱がミシミシと軋み出す。
……揺れている。島が……いや、ダンジョン全体が、魔素の音のない悲鳴に蹂躙されていくのがわかった。
ズンッ……。カグラの頭上に展開された術式の円の中心から、銀色の台座が姿を見せる。
(銀色の竜……?)
柱の形状は、ごつごつとした鱗に模した姿をし、島の地面に鎮座するとともに、カグラの呼び出したそれが何であるのかを知った。
銀色の秤ーー竜を模した姿をしている天秤だ。天秤の先端には、紅く冷たい瞳を宿したものが、鋭い牙を開くようにしてこちらをぎろりと睨んでいた。
「どう……――」
一つ、間を置いてから、僕のほうに顔を向けた。背を向けたままだ。
……ドラゴンのことか……それとも、天秤についての感想だろうか。
「ねぇ、かっこいい?」
「……えっと、うん」
とりあえず頷いておく僕に、カグラは満足そうな顔をしていた。
「これが不死者の冤罪の能力よ。罪で縛られたダンジョンの扉を開く交渉人といったところね」
「…………」
「その反応を見ると――」
うーん、と考えながら、僕とナッツを交互に見比べてから、彼女は思いついたようにパンと両手を合わせた。
「驚きすぎて、声も出ないのね」
……いや、違う。
「……忍が、牢獄迷宮を開いた時に一緒にいたから」
「そう……――」
少し残念そうに言って、ひときわ輝く銀の秤に手をかけて、カグラは一本足の竜を見上げた。
「天秤は――……」
言いかけながら、僕たちの顔色を窺う。
「銀竜の天秤は、忍にはないものよ。あの子は猛獣でしょ? 私の秤は竜なのよ」
猛獣と竜……どちらが上とかないような気がするが、それだとカグラの気持ちが収まらないだろうか。
「す……すごいね。竜のほうが、かっこいいと思う」
「そうよね。やっぱり、そうよね!」
振り返り、すたっと僕のそばまで跳躍し、彼女は笑顔で言った。
オオオオオオオオオッ……。
僕たちの他愛もないやり取りを見てか、呼び出されたまま放置されている銀竜の天秤が不気味な音――空間を裂くような声を震わせた。
シャンシャン……シャンシャン……。
と、まるで催促するように、皿に繋がれた鎖を激しく揺らしていた。
……もしかして、放置されたことを怒ってるのだろうか? いや、術式に喜怒哀楽の感情はないはずだが――。
「さぁ、交渉を始めるわ」
きりっと天秤のほうに向き直ると、カグラの気配が変わった。
ゴォ……という唸りのあと……
『破壊を呼ぶ罪人に問う、汝の求める罰を示せ』
秤に吊るし上げられた銀の器はカタカタと揺れた。声……いや、声と呼ぶべき音の波長は、亜空の向こう側にある深淵の魔物のようにも思えた。
一拍……間を置いてから、カグラの肩がほんの少し上下する。呼吸を落ち着かせているのだろう。
「抗う不滅に意思を示す、罪の咎を眠りのごとく諌めよ」
ぴたり……ダンジョンから音が消える。無音、無風、重力すら無に還してしまうほどの静寂の先に――。
ガクンッ!!!
傾いた。
何もない虚空から、どっ! と、銀皿の片方に荷重が加えられる。
赤黒い影の塊が視界の端を過ぎたあと……
「……心臓か」
……忍のときと同じだ。
重さのかかった皿の上、心臓を模したそれはドクン、ドクン……と脈を打っていた。
「供物を捧げ、我が対価とする」
瞬間だった……――。
カグラが何もない場所に指先を示し、術式を展開させた。亜空間に空いた闇色に染まった空白から何者かの気配が現れる。
どどどどどどどどどっ……ぼて、ぼてぼて……。
銀竜の天秤――心臓を置かれたもう片方の器の上に、彼女の声に呼応し、滝のように降り注ぐ……――。
輪になった甘い香りたち……ーー僕の知っているものだ。
「ドーナツ……?」
皿の上いっぱいに山積みされていくそのスイーツたちを見て、僕は思わず言葉を漏らしていた。
『ミナト……。あれは、駅前にある有名店のドーナツだな……』
耳元で、声を隠すことすら忘れたままナッツは小さな声で呟いた。
ぐんっと……銀皿の上に重みが重なる。
オールドファッション、フレンチクルーラー、リングドーナツ……お店をまるごと買い取ったほどの量が、天秤の皿を凌駕していた。
(これが……供物か……)
……実はあの銀竜の好物なのかもしれない。
いろいろと聞きたいことはあるが、真剣な表情で銀竜と向き合う彼女の邪魔をしてはいけないようの気がした。
オオオオオオッ
銀竜の天秤は無言のまま、山積みされたドーナツに歓喜している……多分。だが僅かに、左右の皿が平行になっていないようだ。
……天秤は釣り合わない。ドーナツが足りないということだろう。
その様子を見て、少し考えてからカグラは僕のほうに歩いてきた。
「このお弁当、一つもらうわね」
……弁当?
僕の疑問をよそに、彼女は立売箱から一つをつまみ上げると、銀竜が示す天秤のもとに近づき、そのままドーナツの上にサラマンダーの包み焼きハンバーグ弁当をぽいと乗せた。
すると……――。
ドオオオオオオオオオオオオオッ!
竜の雄叫びがダンジョン内を揺るがした。
『汝、罪を背負う者よ。しかと受け止めよう』
天秤が釣り合った。どうやら、弁当はお気に召してくれたようだ。
……甘党というわけでもないのかもしれない。
声が空間に轟き、山積みにされたドーナツたちと弁当が虚空の中に飲み込まれていくーーそれと同時に、銀竜の天秤は、頭上に出現した魔法陣の中へと吸い込まれて消えていった。
そのすぐ後……――。
それまで、亀裂でしかなかった空間は左右に引き伸ばされ、そして……島の大地と結ばれた。木の根、洞穴のような亜空に作られた扉とでも呼ぶべきものだ。
だが、その気配はそんなメルヘンなものではない。冷たく沈んだ悲しみすら伝わってくる魔素の見えない霧が、扉の向こう側から押し寄せてきた。
(この気配は、間違いなくーー牢獄迷宮のもの)
「時間がないわ。そろそろ私は行くわね」
小さく嘆息してから、カグラは僕とナッツを見て言った。
「待って……――」
僕の声はカグラには届いていない。振り向くことなく、彼女は深淵に続く亜空の向こうへと姿を消した。
『行くのか……やっぱり――』
少し諦めたように呟く白い猫に、僕は頷いた。
「まだお弁当を渡してないからね」
代金だけもらって、お弁当を渡さないわけにはいかない。
僕とナッツは慌てて、カグラが消えた牢獄迷宮の入り口に飛び込んだ。
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