エピソード94 魔物の消失と断罪の銀秤【一瞬で群れを殲滅した迷子と、再び面倒事に巻き込まれる予感しかしない弁当屋のシェフ】
……静かだった。
シタ……シタ……カタ……バキ……。
草むらの小道を踏む音。乾いた土の上に靴音を鳴らし、行く手を阻むように折れ落ちた小枝を避けながら、僕たちは歩いていた。
……ふと。
時折、ずっと遠くの方で聞こえる魔物たちの奇声に、白い猫はぴたりと足を止めて風の流れを感じ取る。周囲に魔物の気配がないことを確認すると、再び何事もなく歩き始める。
……いるはずがない。
先頭にはカグラが立ち、その後ろをナッツ……最後尾を僕が続いていた。
……周囲はおろか、半径数キロほどは魔物はいない。
空の代わりに天井には、ごつごつとした岩肌がある。
第七坑道ダンジョン――中層階――青白い光を放つ植物に囲まれた森が、すっぽりと洞窟の中に閉じ込められたような作りをしていた。
『何で魔物が一匹もいないんだ……』
歩きながら、白い前足で影を踏むように周囲を窺う白い猫。ぽつり……と、違和感にナッツが呟く。
「……」
ふと、先頭を歩くカグラの背中に目を向けた。彼女は何も疑問を持っていないように思える。
水辺をぐるりと囲む青と黒の木々の合間を通り抜けながら、湖面の外周を歩いていく。
すると――。
『ミナト。お前、何やったんだ?』
後ろを振り向かず、げんなりとした口調でナッツが音のない声で言ってきた。
「さぁ、何のことかな」
『お前……釣りしてたんだよな……』
「釣り、してたよ」
ははは、と――とりあえずごまかした。
……ナッツさんにカグラを押し付けている間、暇だったから周辺の魔物狩りをしてました、なんて言えない。
『別にいいが……』
とぽとぽと歩きながら、白い猫から小さなため息が聞こえたように思えた。
水辺をぐるりと半周ほど……――。
「あれね、二重ダンジョンは」と、カグラは立ち止まって、湖の先に視線を向けた。
周辺に魔物の姿は見えない。湖面の真ん中に向けて、陸地から突き出るようにして続く橋の先には小島があったがーー島からは、滞留した魔素があふれ出てくるのを感じる。
彼女もまた、同じ感覚を抱いたのだろう。
……並の探索者ではなさそうだ。
「ミナト。それに猫さん。これから先、何があっても私の後ろに隠れているのよ」
優しく言うカグラの視線は、今までの彼女の表情とは違った。
……何かがある。
陸地から伸びた橋に差し掛かる。一歩、足を踏み入れる。
コツン……。
木造の歩み板からは、乾いた音が響く。
コツン……コツン……ミキ、ミキ……。
木の軋む音が後から続いて、僕たちも距離を取りながら彼女の後ろについていく。
ちゃぷん……。ほんの小さな音……――。
恐らく、水面が揺れた。揺れたのかもしれない。
先を行くカグラの背中で、はっきりとは見えないが、明らかに彼女の気配が変わった。
何らかの術式を展開させる合図――……。
ザバアアアアッ!
突如、湖面に水しぶきが立ち、水よりも青い体をした何かが飛び出してくる。それも複数――おびただしい数の魔物の群れ。
……一瞬、青色をした影の魔物がサハギンであることに気がついたそのときには――。
――気がつくと……。
再び、静かな湖面に戻っていた。
水面に慌ただしい水紋だけが残り、やがて……音もなく、輪を描いていたはずの波の跡も穏やかな水の流れにその身を戻していた。
……今、何があったんだろう。
カグラが何かをした。魔物たちの数は数十頭あまりいて、連携を取って一斉にこちらに向けて襲いかかってきた……ところまでは、把握できた。
水面の揺らぎが収まるのを待ってから、カグラは僕たちのほうに振り返る。
「大丈夫? 怪我はない?」
焦りをにじませながら彼女は言った。
……魔物たちはまたたく間に消失した。僕たちはただそれを見ていただけになる。
「ありがとう。僕は……ナッツさんも、無事だよ。何ともない」
「そう……――良かった」
彼女は僕の言葉を聞いて、胸をなで下ろした。
……本当に心配しているようだ。
「けど、ここからが本番ね」
と、呼吸を落ち着かせると、彼女は再び小島へと視線を戻した。
――島に近づくにつれて、魔素の量も増えていくのがわかる。
小島の真ん中ほどまで行ってから、カグラの足は止まった。
ヒギギッ……。
空間の軋む音。近づくものを拒むように、魔素が雷のようにざわめき、光をもって威嚇してくる。
何もない虚空に、大ぶりの刃物で切り裂いたような亀裂が口を開いていた。
「二重ダンジョンの入り口ね……それに、この悲壮感」
カグラは半歩ほど亀裂に近づくと、そっと指先を近づけた。バチンと弾かれ、手に残る闇色の魔素を見つめている。
「ミナト……。キミのランクは?」
「ランクは――」
僕はちらりとナッツのほうを見下ろした。白い猫は首をフリフリと振りながら僕に伝えてくる。
「即応探索者だよ」
「……そう」
僕が答えると、少し残念そうな顔で彼女は視線をダンジョンの入り口に戻した。
――即応探索者とは、探索者を引退した者が、非常事態のときだけ活動するものだ。そのため、探索者としての活動を終えた者や、実力に自信のない者たちが所属している部署になる。
「このダンジョンは、誰でも入れるものじゃないわ」
……何かの術式が、カグラの指先から光の線として描き出される。
「即応探索者のキミには少し刺激が強いかもしれないわね」
声に反して、同時に展開される能力の具現化は、彼女が術式の並列処理を行えることを示していた。
……形は違うが……見覚えのある術式だ。
だが、カグラが発した次の言葉で確信した。
「アマト・アヴァリティア《断罪の銀秤》!」
振り上げた片手――その指先から、言葉の羅列が空間へと刻まれていく。
ブワンッ!
と、真上の虚空が歪み、魔法陣が展開された。
(間違いない……この術式は、忍の使っていたもの……)
魔力の風が辺りに吹き荒れる。とっさに、体の軽いナッツが飛ばされないように押さえると、僕は彼女の顔を見上げた。
すると、虚空に描かれた術式からだ――。
ドドドトドドドドオッオオオッ! ズズンッ!
巨大な銀色の天秤が地面に向けて降りてくるのが見えた。
忍が店の厨房で召喚したものに似ている。だが、何かが違う。一本足の竜が翼を広げた姿をしていて、その羽の先に銀の皿が下げられていた。
「どう。驚いた?」
「これは銀龍の天秤……」
「全てを拒む罪を背負う者のみが入ることを許される場所――牢獄迷宮よ」
……そっか。やっぱり、この魔素の気配は前にも感じたと思ったが、忍と入ったあのダンジョンか。
そういえば――私の先輩――と、忍が言っていたのを思い出した。
と――いうことは……。
「アンデッドテイカー《不死者の冤罪》の名において命じる……――」
あ。やっぱり、そうだよね。
カグラは出現した天秤に手のひらをかざす。魔力を乗せた声が、秤に干渉し、カタカタと銀の器を揺らして呼応を始めた。
……これから起こる出来事を予測するように、魔素の孕んだピリリとした空気が辺りをつつみ込んでいくーー
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