エピソード93 不和の螺旋と方向音痴の探索者【鏡面世界の二重ダンジョンで、お弁当の配達と道案内を買って出るのシェフ】
時間は流れている――。
絶え間なく続く回廊のように、はたまた何もない荒野を一人で歩き続けるようにして、僕たちは一人きりの世界の中で、共存しながら生きている。
自分だけがそこにあって、誰かもまたそばにいる時間の流れは、常に理屈を求めてさまよい歩くのだろう。
湖の奥には、もう一つのダンジョンがある……数日前に現れたと言ったほうが良い。
誰も触れることのできない扉の先は、その選ばれしものを待つかのように、空間を歪ませながら渦を旋回させていた。
(ダンジョンに変化なし……)
僕の目的は、カグラが到着するまで、第七坑道ダンジョン内に発生したもう一つのダンジョン――二重ダンジョンの動向を探ることだ。
二重ダンジョンは、探索者たちの通称で、本当の呼び名は不和の螺旋といって、決して混ざり合うことのない鏡面世界を示している。
(今のところは、何も問題は起きていない……)
周囲の気配も安定している。二重ダンジョンから魔物たちの暴走が起きる予兆も感じられない。
不和の螺旋は、異なる次元間の結合で発生するダンジョンの突然変異のようなもので、予測不能な事態を招きやすいとされている。
……トッ。
背中に近づいてきた足音に気がつく。
僕が振り返るよりも少し早く、柔らかな口調の声が耳に届いた。
「……釣れますか?」
「魚の方からやってきてくれると、釣りは簡単なんだけどね」
「ふふ、楽しむものではないのね」
振り返ると、長めの黒髪、フード付きのだらりとしたコートを着た少女が立っていた。
「ここへは、いつも来てるの?」
「魚を迎えるために来ただけで、いつもじゃないよ」
「そう……」
と、少女は興味なさそうに返事をしながら、僕の横に座った。
とてとて……と、白い猫がそばにやってくる。
『無事に連れてきたぞ……』
音のない声で猫――ナッツはそう言うと、僕のそばに寄り添った。
「あなたの猫さんだったのね」
「僕の大事なパートナーだよ」
「そう……――」
愛想のない返事をしてから、少女は黙り込んだ。何かを思い出しているのか、何も考えずに湖面をじっと見つめ、静かな時間だけが過ぎていく。
「私の名前は、カグラ。探索者をやってるわ」
不意に彼女が名乗り、身分を明かしてくる。それは多分、探索者でなければ入ることのできないダンジョンで釣りをしている僕に、疑問を持ったためだろう。
湖面を見つめながら、どこか寂しげな声で彼女は続ける。
「いつも一人で……気がついたら一人になっていて……そばにいてくれた人たちも、いつの間にか、私の前からいなくなっているの……」
『それは、迷子になって仲間からはぐれたのではないか……』
思わず声を出そうとするナッツを、僕は慌てて押さえながら、カグラに言った。
「僕はミナト。弁当屋をやってる」
「お弁当屋さん……?」
ちらりと、僕の傍らにある立売箱に詰まった弁当たちを見やり、カグラは空の方を見ながら言う。
「そういえば、まだ朝ごはん食べてなかったわね……」
……もう夕方だが、というツッコミはさておいて、僕は釣り糸を手繰り寄せながら釣りをやめた。
「霧島忍さんから、お弁当の配達を承りました。ハクリュウ弁当です」
「え? 忍から……――」
そこまで言いかけてから、気まずそうに下を向いた。
「忍さんなら元気で過ごして……」
「その……あの子、きちんとお金の支払いはした……?」
……あ、そっちか。
確かに、まだ忍からお代はもらっていなかった。
深いため息をついてから、カグラの表情が少しだけ明るくなった気がした。
「そうよね。あの子、いつもそうなの」
「いつもって……?」
「お金を払わずにどこでも放浪して、気がつくと近所の人におむすびをねだって生き延びているらしいから」
「……そうか。それで、僕のところにもきたんだね」
忍がやってきた日のことを思い出しながら、僕はカグラの言葉を聞いて妙に納得した。
うーん、とカグラは悩みながら聞いてくる。
「この中のお弁当はどれでも選んでいいのね」
「もちろん。好きなのはある?」
「魔物の肉でお弁当なんて初めてね」
「安心して。魔素はしっかり抜いてあるから」
「そう……――」
箱の中をのぞきながら、少し考えて――カグラは弁当を指さした。
「こっちのコカトリスのチキン南蛮弁当と、レッドシャークの幽庵焼きのお惣菜……――」
コカトリスの肉は、ハクリュウ弁当でもわりと人気が高い。肉も柔らかく、何よりも卵が濃厚で、タルタルソースにするとよく合うのだ。
……お店でも、定番の弁当になる。
「それと――」
……え?
「オーク肉の串カツ弁当とファイアリザードの唐揚げ弁当、それにこっちのキラー・トマトのパスタ弁当をそれぞれ五つずつお願いするわ」
『パーティでも開くのか……?』
カグラのオーダーに、思わずナッツも彼女の顔を見上げて呟いた。
「あの……」
この量は、一人で食べるには多いのかも……いや、絶対に多い。
「大丈夫よ。これからダンジョンに入るのに、そんなにたくさんの荷物を持っていたら危険じゃないか、と言いたいんだろうけど、収納バックを持ってるからお弁当はこの中に入るのよ」
ふふふ、とカグラは上品に笑って言った。
……そういうことではないが。と、言いたいことは山ほどあるが、僕はとりあえず指名された弁当たちを袋へと詰め始めた。
「これ、お代ね」
「はい。ありがとうございます」
僕がいただいた代金を亜空間収納にしまっていると、彼女はすっくと立ち上がった。
「もう行くわ」
と、そのまま僕の方に背を向ける。
「あの、待って」
「どうしたのかしら」
いや、早速お弁当を忘れているし……反対方向に歩き出してるし……。
「そっちに行くと、ダンジョンから出ちゃうけど」
「あ……私ったら、ありがとう。お弁当屋さん――」
「ミナトだよ」
「……そう、ミナト。迷子にならなさそうな名前ね」
そんなことを言われたのは初めてだな……。
「よければ手伝おうか?」
……まだ弁当も渡せてないし。
僕の提案に、カグラは強く首を横に振った。
「お弁当屋さんが? ダンジョンは危険よ。料理を作るのとは違うのよ」
まるで、仕事に行くお母さんについていこうとする子供をなだめるように、カグラは僕の顔を見てくる。
「大丈夫。肉を解体するのと同じだよ」
「ダメ。絶対に危険よ。ダンジョンは、私一人で行くわ」
「カグラ……」
足早に立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。
「どうしたの?」
静寂――止まったような時間が、とっとっ、と過ぎていく。一拍の間を置いてから僕は言った。
「そっちは出口だけど……」
僕の言葉に、はたと気がつき、カグラは恥ずかしそうに周りを見渡した。
『……大丈夫なのか? あいつ』
途方もなく迷子になる癖を実感しているナッツは、カグラを見て深いため息をついた。
「ご忠告ありがとう、それに猫さんも」
「手伝おうか? 道案内くらいならできるよ」
少し考えてから、どこか諦めたように苦笑しながらカグラは返す。
「そうしてもらえると助かるわ」
……二度も出口に向かおうとしたのだから、そろそろ絶望的な方向音痴であることを自覚してもいいのではないだろうか。
僕たちは、二重ダンジョンのある場所に向けて歩き始めたーー
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